第一話 「卒業試験」  アメリカはマサチューセッツ州。その手の人間にとっては超名門、ミスカトニック大学。  まっとうな人間では全く用の無いであろう場所に、僕は居た。なんでまっとうじゃないかって?  世の中広しといえども、居るかも分からない『邪神』の研究をしている大学はここだけだろう。  あぁ、そうそう。僕の名前は八上透矢(やがみとうや)  多分、この大学唯一の日本人だ。  そして、僕は今普通の大学には無いであろう、異常に広い中庭の大きな木の下で寝転がっている。  正確に書かせて貰うと、ミスカトニック大学魔術科所属、十七歳だ。 「はぁ……」  午後も盛り、日中の太陽の日差しはまだまだやってやる! と息巻いて、凄まじい太陽光線を発している。  その尽きることのないファイティングスピリッツに、僕は精も根も尽き果てて、早々にリングから降りていた。  大学の校舎内に冷房がないという信じられない事態に、僕は四年間ここにいるが全く慣れていなかった。  お陰で今日も、この大学内で一番涼しいと思われるこの木の下に避難しに来ていた。 「なんでこの大学冷房無いんだろ。ほんと」  何度同じ恨み節を呟いたことか。僕のここでの夏の思い出ははっきり言って、この木の下と暑すぎる教室の思い出しかない。  夏休み? いやいや、邪神や旧支配者は待ってくれないだそうで、一日でも休みが惜しいんだそうだ。凄まじい研究への執念だ。 「はぁ……」  もう一度同じため息。ため息を吐くぐらいしか、やることがないんだよね。  彼は、いつもの夏と同じように木の下で本を読んでいる。何も変わらないその姿。顔を見るだけでも、頬が熱くなってしまう。  こんなことを考えていることが分かったら、軽蔑されるんだろうか。  出来るだけ顔に出さないようにしながら、私は彼に近付いていく。 「カノン」  顔だけを上げて、彼は私を見た。優しく微笑んで、どうしたの? と続ける。もう、それだけ何も考えられなくなってしまう。 「え、えっと……。透矢は居るかな、なんて」 「もう、四年間も一緒にいるじゃないか。僕が何やってるかぐらい分かるでしょう? 特にこの季節は。 図書館に行っても良いけれど、あそこに行くと長居しちゃうしね」 「透矢、なんかつまんない」  ようやくいつもの調子を取り戻して、私は透矢の隣に腰掛ける。 「もうすぐ……日本に帰るんでしょ?」 「うーん……」  透矢はなかなか答えてくれない。 「正直迷ってるんだよね。もう親族も居ないし、教授も養ってやれなくもないって言ってくれてるし」 「父さんが?」 「まぁ、甘えるわけにはいかないから。僕もこんな大学で食べていきたくないし、正直なところ」  透矢はそう言ってから笑った。それが、日本に戻るという意味だと分からないほど私は鈍くない。  早く言わないと……。意を決して、私は口を開く。 「透矢。あのね……」 「透矢ー!」  聞き慣れた父さんの声。あまりの空気の読めてなさに、私は思わずため息を吐く。  また、言いそびれちゃった。  僕を呼ぶ声に振り返る。  僕を呼ぶのはやっぱり教授だった。  あ、僕の隣に腰掛けているのはカーター教授の娘さん、カノンと言う。かれこれ、四年の付き合いになる。  西洋人形のような、繊細な顔つき。ウェーブが掛かった綺麗な金髪と吸い込まれそうな碧眼。  長い付き合いだけれど、僕としては出会った女の子の中で一番可愛いと思う。うん。 「教授。……次の授業は教授じゃなかった気がするんですが……」  そして、今僕の目の前に駆け寄ってきたダンディズムの権化のような人は、ランドルフ・カーター。  オールバックに見るも眩しい白いYシャツの英国人……?  なんかダンディズムを勘違いしているような気がするけれど、ダンディズムらしい。だからこの人はダンディズム。 「いや、別件なんだ」 「別件?」  この人が口ごもるなんて珍しい。 「父さん」 「カノン、仕事場に戻りなさい。透矢、行こうか」 「えぇ」  教授の後に従って、僕は立ち上がる。カノンに会釈してから、僕は憩いの場を後にした。  教授に付いて、校舎内に入る。  大理石の無駄に白い校舎内。どう考えてもここに居る人達は校舎の白に似つかわしくない。 「しっかし、透矢がここに来て四年か」 「いつ日本に帰れるのやら」 「帰りたいのかい?」  少し驚いたように、教授は僕に尋ねる。 「……まぁ、一応母国ですから」 「そりゃそうか。僕もたまにイギリスが恋しくなる。まぁ、他の僕がそこに居るから、構いはしないんだけどね」  普通の人間からしてみれば、何言ってるのこの人? みたいな感じだろう。  この人にとっては“他の世界に居ようとも”自分は自分だそうだ。  考えることはおすすめしない。頭が悪くなる。 「僕にとっては今居る教授が教授ですけど」 「ま、人は他人が居るから人ってわけで。君が居るのもあって、今の僕って事なんだよね」 「それで……。今日は何のご用ですか?」  さすがに僕も、教授の話に延々付き合っているほど暇ではない。いい加減、話を進めるとしよう。 「うん、教授達の間で話がまとまってね。卒業試験を受けて貰おう、ってことになったんだ」 「卒業試験……?」 「そう。僕やラバン、バレット辺りが決定してね」 「何をするんですか?」 「それをこれから君が聞きに行くのさ」  教授はあるドアの前で立ち止まる。ミスカトニック大学大学長、ラバン・シュリュズベリィの部屋だ。 「ラバン、入りますよ」  ノックもせずに、教授は扉を開ける。  久々に入る学長室。いつも通り、本だらけの部屋と優しげな老人の声が僕たちを迎えてくれる。  老人の声、だけというのはホラーなのだけれど。実体は一体、どこにあるのやら。 「透矢、カーター。よく来てくれた」 「お久しぶりです。学長」 「そんな堅苦しくしないでくれ。カーター、どこまで話した?」 「卒業試験のことだけですよ。美味しいところは持って行かない方が良いと思いまして」 「カーター、ありがとう。……さて、透矢」  仕切り直しとばかりに、学長は声色を変える。  それに合わせて、僕も少し緊張しながら続きを聞く。 「卒業試験は実地試験だ。この街から南にある街、インスマスに行って貰いたい」  インスマス。何度か教授達の話の端で聞いたことがある。あまり良いイメージはないんだけれど……。  とりあえず、カマを掛けてみることにする。 「あまり、良い噂のある街じゃなかったですよね?」 「君にはその噂の調査に行って貰いたい」 「あの街は政府による掃討作戦で、もう何も居ないと聞いていますが?」  確か、そんな話を聞いた覚えがある。数十年前に政府が掃討作戦をしたとか、してないとか。 「それを調査して貰いたいわけさ。君には頼りになる友人達が居るだろう?」  僕の頼りになる友人達。その友人達こそ、僕がこの大学に居ることになった理由だ。僕の友人達は皆、なんというか……。  まぁ、その話は後ほどにしよう。 「カーター」 「はい?」 「君の娘さんと行って貰ってもよろしいかな?」  一体何を言っているのか理解できてなかったのか、教授はしばらくの間フリーズしていた。  ようやく学長の言ったことを理解したのか、奇声をあげる。 「えぇぇぇぇぇぇぇ!?」 「……教授……」  呆れ半分、驚き半分で教授を見やる。慌てて、教授は平静を装った。 「す、済まない。取り乱してしまった。……透矢、君は良いのかい? カノンが付いてきても」  少し考えて、教授の声の方に顔を向ける。 「学長」 「なんだい?」  優しげな声で学長は語りかけてくる。 「危険なんですか?」 「……それは君と、君の友達次第かな」  学長はそう言って言葉を濁す。……間違いなく危険なんだろう。  が、学長が言うと言うことは、きっとカノンが何か必要だと言うことに違いない。 「分かりました。学長が言うのなら、きっとカノンが居ないといけないんでしょう。……教授、よろしいでしょうか?」 「君が良いのなら、僕は構わないよ」  僕は少しだけ考える。これで魔術科の教授達が付いてくると言うのなら、そのままどこかに置き去りにしてしまいたいぐらいだけれど……。  カノンならそういうわけにはいかない。 「では、ちょっとした小旅行に娘さんをお誘いしても良いですか?」 「あぁ。……あ、透矢」 「何かお話があるんでしょう? 僕は先に戻っておきます」  僕は一礼して、部屋を辞去した。  透矢が出て行った室内に、カーター一人が残っている。  カーターは見えない相手に語り続ける。 「カノンがなぜ必要なんです?」 「まぁ、ちょっとした透矢の覚醒を求めてるって言うかね。……あの街を選ぶ、皆のセンスには正直怖い」  ラバンは続ける。 「ま、民主主義だから。うん。でも他にロクなところが無かっただろう?」 「まぁ、確かにそうですけどねぇ……」  インスマスがまとも、という時点でカーターはうんざりしているのだが、それを顔に出すことはない。  顔に出さないところで、ラバンには分かっていることなのだろうが。 「私としても、青少年の恋の手伝いはしたいしね」  茶目っ気たっぷりにラバンは言った。 「それにしても、なんというか……。初めての魔術科の生徒も卒業となると、感慨深いねぇ」 「確かに、そうですねぇ……」 「カーター。君は余計に思うところがあるんじゃないかな? 透矢は君の愛弟子のような物だろう?」 「そりゃ、まぁ……」 「なに、彼の友人達は皆賢いし、強い。君の娘や彼をきっと守ってくれるはずだ」 「それぐらい、知ってますよ。……エイボンは?」 「魔道書関連はヘンリーに任せている。彼の判断で貸すか貸さないか決めるだろう」  カーターは頷いた。 「ま、彼のことだ。必要な物も不必要な物も、自分で決めてくれるだろう」 「僕らって本当に学校かって思うぐらい放任主義ですよね」 「まぁまぁ、自由の国らしくて良いじゃないか」  なんとも適当な学長と教授である。他の教授たちもはっきり言って大差ないのだが。 「そうだ、ラバン」  カーターは思い出したように、重大なことを言う。 「ん?」 「クロウリー達が不穏な動きを見せているという話が」 「……奴らを透矢に会わせるわけにはいかないな」 「バレットが動いてくれるようですが……」 「彼が動いてくれるのなら、まぁ、しばらくは問題ないだろう。いい加減、彼らも目に余ってきたな」  ラバンの鬱陶しそうな呟き。彼にとっては一介の魔術師風情など取るに足らないのだろうが、透矢にとっては重大な問題だ。 「それに関しては、魔術師達に任せておきましょう。我々の敵は」 「邪神、だな」 「では、報告はこれぐらいでよろしいでしょうか?」 「ん、ありがとう。……すまないな」  ラバンの謝罪に、カーターは何も答えない。その答えが何の意味も無いことぐらい、彼には分かっている。 「では、失礼します」  そう言って、カーターは透矢と同じような動作で部屋から出て行った。それを見届けたラバンは、一人笑う。 「ふっ。やはり、君たちは心の底から師弟だよ」  透矢はカノンがアルバイトしている、学生食堂に来ていた。学生達は今、授業中。  客も居ないので、気にせずに仕事中のカノンと話すことが出来る。 「透矢。珍しいね」 「失敬な。サボりじゃないよ」 「サボりなんて言ってないわ。あ、ご注文は?」  この大学唯一の良心かも知れない、この学生食堂。あ、カノンは学生じゃないけどね。父親のよしみでバイトに来ているらしい。  なぜ良心なのかというと、メイドなんだ。うん。メイドなんだ。制服がメイド服なんだ。  そう言えば昔、カノンにメイド服が似合っているよと言ったことがあったっけ。その時はかなり怒られた覚えがある。  というかこの食堂の子細を決めた、良心溢れる教授は誰なんだろうか。いつかお礼を言いたいものだ。 「んー。カフェオレでも頂こうかな。カノンも一緒にどう?」 「良いの?」 「うん。カノンに用事があったから、出来ればこう、向かい合ってお話ししたいなぁと」 「そ、そう?」  カノンはたったったと、食堂の奥に消えていく。  十分ぐらいして、カノンはさっきの普段着に着替えて、カフェオレを両手に持って帰ってきた。 「おかえり」 「はい。おまちどおさま」  一口カップに口を付けて、なんて切り出そうか考える。 「そ、それで。話って……?」 「あぁ、あのね。うちの教授達がさ、卒業試験だとか言い出してね。 ちょっとした小旅行に行かなきゃいけないんだけど……。いっしょにいかがかな? なんて……」 「え? 卒業試験……?」  反応するのはそこか。 「あー、一応、僕がここで学ぶべき事は終わったみたいなんだ。あの人達の教育って言うと教育じゃない気がするんだけど。 それはとにかく、いや、そのね、思い出作りみたいな……」  インスマスで思い出が作れるなんてとても思えないけれど。 「どこに行くの?」 「ここから南の街、インスマスだよ。……あー、やっぱり隠し事は出来ないや。正直に言わせて」  カノンに嘘を吐くのは、なかなかに心が痛い。正直に言わせて貰おう。  ラバンの言う条件が満たせないかもしれないけれど、カノンの安全を考えると連れて行かない方がいい気がするし……。 「その……なに?」 「インスマスっていう街はね、過去には政府が掃討作戦を展開するまでしたって言われる、曰く付きの街なんだ。 僕はそこに調査に行く、それが今回の試験の内容。ようはフィールドワークだね」 「そんなところで何をするの?」 「さぁねぇ……。まぁ、とても楽しいことは起きないと思うかな……」 「透矢」 「ん?」 「それが終わったら、透矢は日本に帰るの?」 「……そのつもりかな」  ここに居続けるだけでは、僕は何も得ることが出来ない。何か得たい物があるわけではないけれど……。  ここに留まっているだけではいられない。そういうことは、なんとなく分かっている。 「そっか……」  少し、カノンは考え込んでいる。まぁ、断られても仕方がないだろう。 「断ってくれて構わないよ。万が一にでも、カノンを危険な目に遭わせてしまったら、教授に申し訳が立たない」 「……ん、私、行く」 「え!?」 「透矢との、こっちで最後の思い出を作れる機会なんだもん。行く」 「なら、僕は君を全力で守るよ。必ず、ね」  僕はにこりと微笑む。なに、少々クサいけれどこれぐらいは格好付けたって良いじゃないか。 「そ、それでいつ発つの?」 「分からないけれど……。とりあえず、準備だけは今日中に済ませておくよ。図書館に行ってくるね」  二人分のお代を置いて、僕は食堂を後にした。  ミスカトニック大学の図書館。いやもう、本当に浮世離れした場所だ。  そこを管理しているヘンリー・アーミティッジ教授もその雰囲気に負けず劣らず凄まじい。 「館長……居るかな……?」  食堂から徒歩六分ほど、下手をすれば校舎より手が凝った大理石で出来た建物の前に僕は立っている。  ここが、ミスカトニック大学の誇る、付属図書館だ。  ……どうやら、今回に関してはつくづく運が悪いらしい。 「透矢か」  建物を眺めていた銀髪の初老の男性がこちらに歩いてくる。  この人が、ヘンリー・アーミティッジ教授。カーター教授と同じく、ミスカトニック大学の教授だ。  しかしこの人は、どちらかというと教授と言うより図書館の館長の方が似合っている。 「聞いていらっしゃらないんですか? 僕がインスマスに行くこと」 「聞いているよ、透矢。きっと君が来てくれると思ったから、こうして待っていたわけさ」 「まぁ、その方が話が早いですね」 「それじゃ、持ち出し禁止の所に行こうか。エイボンが君を待っている」  僕は教授に付いて図書館に入っていく。どうやら、もう人払いも済んでいるようだ。  教授に付いて奥に奥に入っていく。そして、鎖で雁字搦めにされたコンクリートの扉の前に着く。 「いや、相変わらず凄いですね。この部屋」 「まぁ、一応危ない部屋だしねぇ。それじゃ行こうか」  一つ手を叩いた瞬間、扉を雁字搦めにしていた鎖は消え失せた。仕組み? 全く分からない。 「教授……一体どうやってるんですか……?」 「企業秘密」 「あー、左様ですか……」  答えを聞き出すのはとっくに諦めている。まぁ、習慣のような物だ。そんなこんなで、教授の後を付いていく。  かび臭くて埃っぽい部屋の中へ足を踏み入れる。ちなみにだが、常人は下手をすればここに入るだけで発狂してしまうらしい。  残念だ、僕は常人ではないらしい。  ガラス張りの棚の中に、とても普通とは思えないような表紙の本がちらちら見える。  どの本も、なんというか、浮世離れした物を感じさせる。見ているだけで視界が反転するかのような、平行感覚が失われる感覚。  本からの悪意、とでも言うべきだろうか。思わず、地面に膝を突いてしまう。 「相変わらず酔うねぇ。透矢」 「すいません……」  教授が背中をさすってくれる。息を何とか整えて、もう本棚に目を向けないように心がける。  と、来る度に思うんだけど見ちゃうんだよね。 「ま、僕としては羨ましい限りだけどね。君は呼ばれてるんだから」 「はぁ……」  そんなのに呼ばれるなんて、全力で遠慮被りたい。こればっかりは相手あってのことだから、僕にはどうしようもないのが現実だけど。  心を強く持つこと。それが、この大学で学んだことの一つだ。 「さて」  僕と教授は、ある本棚の前に立つ。本棚にはこう掲げられている――『危険につき、一切の持ち出しを禁ずる』 「君の卒業に合わせて、教授達はオリジナルを君に持たせるか、写本を君に持たせるかで揉めたんだ」 「それで?」 「結論としては、写本を持たせるってことになった」 「まぁ、オリジナルは呼んでしまいますからね。動かさないべきでしょう」  ま、簡単に言えばさっき、僕に異常を引き起こさせたような物、もしくはそれに連なる怪異を引き寄せてしまうということ。……あれ? 「教授。でも、日本に戻るのは僕だけですよ? 僕だけなら、あれぐらいならその、彼らの力を借りて……」 「君は少しだが、自信過剰のきらいがある。 確かに君の持っている力や才能は希有な物だが、世界の怪異全てから身を守ってくれるほどの力は残念ながら、まだ身についていない」  教授の厳しい言葉。思わず、俯いてしまう。あまり怒られた経験が無いだけに、この言葉が重く響く。 「だが、一方で私たちでは触れることすら出来ない力を持っているのもまた事実だ。 なに、自分に自信を持つのは悪い事じゃない。誇りを持って、力を使ってくれ」 「はい」 「それじゃ、開けようか」  教授は僕の言葉を待たずに、扉を開いた。さっきのような悪意ではなく、感じるのは暖かさ。  思わず、体全体の意識がそっち側に向いてしまう。  僕がある本に目を奪われている間に、教授は目的を遂げていた。 「まがい物だが、力は本物だ。心して使ってくれ」  ある本の近くにあった、羊皮紙の束を僕に手渡す。僕が触れた瞬間、その羊皮紙は戸棚にある本と同じような装いに姿を変えた。 「これは……」 「君の物だ」  僕は本に目を落とす。この本の名前はエイボンの書。ある魔術師が記した、力ある存在から身を守る方法や、召還する方法が書かれている。  ただ、僕にとってのエイボンの書は少々違う。 「力ある魔道書は、力ある者に合わせて姿を変える――。 君の力は呼び出すことに特化していたわけだ。それ以外の魔術的な才能は君には全くない」 「ははは。まぁ、全くもってそうでしょうねぇ。バレット教授とかパリス尊師には申し訳ないぐらい、魔術の覚えは悪かったですもんね」  今でも覚えていないけど。まぁ、人には得手不得手ってあるよね。 「こうして巣立ってくれるだけで我々は十分さ。あ、それは君がどうこうしてくれて構わない」 「大切に使わせていただきます。教授」 「ありがとう。……この後は暇かな?」 「この後、ですか……」  特に予定らしい物は入っていない。  インスマスへの旅行は着替えとこの本ぐらいしか持っていく物は無いし、すぐに準備しないといけないなんて切迫した事情もない。 「暇、だと思います」 「なら教授会に……」 「さようなら。教授」  教授会というのは、この大学内にいる奇人を極めた奇人達が、ようは魔術科の教授達が一堂に会する会議のこと。  そんな異空間に行きたがるほど、僕は命知らずではない。 「全く、最後ぐらい付いてきてくれたって良いじゃないか……。 まぁ、僕だって一応の常識がまだある内は、あんな所行きたくもないけれどねぇ……」  僕の家はこの大学の中にある。カーター教授の家もこの大学の中だ。  そう、僕はカーター教授の家に居候の身なのだ。 「ただいま……」  一つしか鍵が掛かっていない。ということはカノンは先に帰っているらしい。  というか電車賃とかの移動費がかかるからって、使わなくなった大学の実験棟の一部を自分の家にするカーター教授にはビックリだ。  元実験棟とは言っても、案外住み心地は悪くない。リフォームの賜なんだろうけど。  台所の方からカノンの声がしている。 「あ、おかえり」 「教授、今日は会議らしいね」 「え、あ、うん。そうみたいだけど?」  長いと一晩中語り合っているあの教授達。一体何を話しているのやら。  参加したくは無いけれど、やっぱり少しだけ興味はある。ま、深みにははまりたくないよね。 「あ、その本……」 「僕の小道具だよ。あ、そうだ」  さっき、図書館で調べた、インスマスへの行き方をざっと説明する。電車では行くことは出来ず、陸路を取るしかない。  となるとタクシーかバスだが、ま、貧乏学生なのでバスで行くしかない。バスでは二時間ほど。  現地のホテルは一応営業しているらしく、そこに泊まるなど、云々。 「ま、タクシーには拒否されるらしいけどね」 「拒否!?」 「それだけヤバイ土地ってこと。あの街に足を踏み入れた物好きが、そのまま行方不明になったって話もある」  眉唾物だけどねぇ。ネットのその手の噂なんて。 「……凄い所なんだね」  でもカノンは感心していた。たまに、この子は凄い世間知らずなところがあるような気がする。 「ま、そんなことにはしないけど。一週間行くなんて事にはしない、二三日で調査は終わらせるつもりだから、 着替えとかだけを持っていってくれるだけで良いと思うよ」 「うん、分かった」  伝えることだけ伝えて、僕は自分の部屋へ向かう。  僕の部屋はまぁ、自分で言うのも何だけれど、綺麗だ。埃は一つも落ちていないし、整理整頓も行き届いている。 「見張り、お疲れ様」  僕の言葉に、部屋の隅で丸くなっていた黒い物体が小さく鳴き声をあげて応える。 「うーんと?」  机の上には何通かのエアメール。いつもは大抵、一通しか来ていないはずなのだけれど。 「お仕事、ご苦労様です」  一つは、僕の実家を月一で掃除してくれている業者さん。最近は向こうのご厚意で週一で掃除をしてくれているらしく、ありがたい限りだ。 「それで、残りは?」  机に乗っていたのは三通。一つはさっきの業者さんからの報告。残りの二通はというと、 「見慣れない名前だな……」  「Sion Hamana」……ハマナ、シオン? 「ふぅん……。呪いのメッセージってわけじゃなさそうか」  机のペーパーナイフで開封。中からは一枚の便箋。女性っぽい、綺麗な字で書かれている。  文面を声に出して読んでみる。 「私のこと、覚えているでしょうか?」 「覚えてないです。あ、これは僕ね」  誰に注釈を入れているんだろうか、まぁいいや。 「透矢君と別れて早いもので、四年となりました。何やらアメリカの凄い大学に留学しているようで、びっくりです」 「ここって凄いのかなぁ……」 「今回お手紙を差し上げたのは、四年ぶりに小凪に帰ることになったことを知らせようと思ったからです。 ようやく父の仕事にも都合が付き、思い出の街に帰ることが出来そうです。……」  この先は読んでも意味がない。だって、この人が書いていることを僕は何一つ覚えていないのだから。 「なんで、僕の今の住所を知っているんだ……? 向こうの親族達とは絶縁状態だし……」  独り言を呟きながら、次の封筒に手を伸ばす。僕がそれを手に取った瞬間、隅で丸くなっていた黒い物体が、一目散に飛び出してきた。  そいつは僕から手紙をむしり取り、一飲みでそれを飲み込む。 「どうした?」  いきなりの行動に驚きながら、ベッドの上で仁王立ちしている黒い犬に尋ねる。 「グルルルル……」  血走った瞳。憎々しげに、封筒を奥歯で噛み切る。その瞬間、口元から紫色の煙が上がった。その色を僕は嫌と言うほど知っている。 「呪いか」  黒い犬が噛み切った封筒の一部を拾い上げる。  封筒の裏と思われる部分には、黒い何かがびっちり書き込まれていた。細部までは読み取れないが、恐らくルーン文字だろう。 「明らかに悪意のある魔術」  それを握りつぶし、僕は犬の頭を撫でる。さっきまでの殺気立っていた雰囲気から一転、子犬のように犬は僕に体を擦り付けてくる。 「やれやれ、どこの酔狂な人間の仕業だろうね。……みんな」  気付けば、僕の周りには何人かの男女が思い思いの格好で立っていた。  腕組みで気難しそうな顔の男、僕の背後で優しげな笑みを浮かべている女性、黒い犬の耳を何やら弄っている兵士風の男。 「我らに聞かれてもな」  その中で、一番威厳を持った男が僕に応える。片目には眼帯、なかなかに荘厳な顎髭をたくわえているこの男の名前はオーディン。  ヴァン神達の長にして、知識と戦争を司る神だ。北欧神話の中心的な神でもある。 「久しぶりね、透矢」  後ろから僕をぎゅっと抱きしめてくる女性はアテナ。美しい顔立ちに映える長い髪の美麗さは現実離れしていると言わざる終えない。 ギリシャ神話の守護神にして、人を助けることも多い、行動的な女神だ。 「おう、お前も元気そうで何より何より」 「アレス。嫌がってる」 「んなこと分からないだろ。透矢、お前にはこいつの言葉、分かるのか?」  腰には剣、腕には盾の鎧装束のこの男の名前はアレス。ギリシャ神話の軍神だ。 「目で訴えかけてきてるんだけど。ま、いいや」  そう、彼らは様々な神話に登場する神々だ。僕の唯一にして、最大の魔術的な才能。 それは、彼らのような、神格を持った存在を召還することだった。もっとも、これは誰かに習った物じゃない。  幼い頃、僕は神話が好きだった。もう顔も思い出せない父が持っていた本を、一人で読み漁っていた。  そして、いつだったか、突然本を読んでいる僕に語りかけてくる物があったんだ。それが、彼らとの始まり。 「アテナも」  あるように見えてあまり無い胸を押し付けてくる、まぁ、本人にはその気は無いんだろうけど。昔からのスキンシップの一環のつもりなんだろう。 「あら。遂にあの子に心変わりされてしまったかしら?」 「そういうわけじゃないよ。……オーディン」  この二人と会話をしても、あまり実りが無いのには慣れている。助けを求めるように、オーディンを見た。 「低級の魔術ではあるが、敵対心であるというのには変わりないな」 「僕、知り合いは数えるぐらいしか居ないんだけど」 「だろうな。だが、一歩間違えればこの家の少女に危険が及ぶ可能性もあった事を考えると……」 「この問題の根本を断ち切るべきだ、と?」 「うむ。して、我々が出て来たということは……」  彼らは皆、いつも出て来れるわけではない。  色々とめんどくさい召還のための準備が必要なのだが、僕は幸か不幸か、それを飛ばして彼らをこの世に顕現させる力という物を持ってしまったらしい。  しかも、僕が召還した彼らは、よりしろとなるもの(今の場合はエイボンの書)への力の供給が無くなるかしない限り、ずっと僕の側に居続ける。 「厄介ごとだな?」 「その通り。僕の卒業試験でね、ある街の調査に行くことになったんだ」 「その街が厄介、と。……卒業?」 「透矢、この学校卒業するの?」 「らしいよ」 「追い出されるんじゃなくて?」 「アテナ。僕のことなんだと思ってるの? ……はぁ、とにかく、その街の調査をするに当たってね、色々と大変な目に遭うことになりそうだから、みんなにも協力して貰いたいってわけ」  皆は少し黙った後、 「透矢に協力をしない、というのは我々の選択肢には無い。幼い頃の約束、お前はともかく、我々は忘れはしない」  オーディンの言葉に、二人は頷いた。 「ありがとう、みんな」  彼らとの最初の思い出は、五、六歳ぐらいまで遡る。  その頃から僕は、北欧やギリシャ神話を父親の書斎で読み漁っていた。理由は分からない。  父や母は正直子育てには関心が無かったようで、相手にされなくて寂しかったのかもしれない。  そんなある日、僕はいつものように書斎で本を漁っていた。  そこで、一冊の本を見つけた。その本は「エイボンの書」の原本だ。英語で書かれたそれを、子供の頃の僕は読めるはずはない。  なのに、僕は自然とその本を読めていた。正確には読んだ、ではなく理解した、ということだろうか。  一通り読み終えた時……僕の周りには、彼らが居た。  始め、何が起きたか分からなかった僕も、少し驚いただけですぐに彼らとうち解けた。  元々、大人という物に飢えていた子供の頃の僕は、彼らを家族のように思っていた。  そんな風に過ごすようになって、七年ほど経ったある日。……父と母が、旅先で死んだのは。ただ、僕はあまり哀しまなかった。  ただ、父と母はあまり親戚や近所との付き合いをしてこなかったせいで、僕は本当に一人ぼっちになってしまったんだ。  使用人達は居たけれど、皆、僕ら家族に必要以上に干渉しようとはしなかった。そんな時、僕の家に一人の客人が現れる。  若き日のランドルフ・カーターだった。  彼は僕を強引に国外へ連れ出し(これ、誘拐だと思うんだ。今思うと)そして今に至るんだ。  彼の目的はエイボンの書の原本の回収、だけだったのだが、僕が類い希な召還師としての力を持っていたことから、  一緒に保護、してくれたらしい。いや、保護じゃなくてこれは誘拐……とは、教授の名誉のために考えないことにする。  まぁ、そんなこんなで紆余曲折の果てに今の僕があるわけだけれど。その紆余曲折はまた別の話。  こんこん、とドアをノックする音が聞こえてくる。 「はい?」 「透矢。ご飯出来たけど?」  僕の周りからは、皆はかき消えていた。僕以外には顔を晒したくないらしい。 「ん、すぐ行くよ」  僕とカノンの二人っきりの夕食。いやぁ、慣れてしまったけれど、なかなかこれは良い環境なんじゃないかと思う。  具体的に言うなら、眼福眼福。 「どうしたの?」 「いやいや、僕は幸せ者だなって思っただけ」  カノンはきょとんとしている。まぁ、意味を分かられると僕が困ってしまうので、黙っているとしよう。 「ねぇ、透矢」 「ん?」 「透矢宛の手紙、多かったけれど……。誰から?」 「一通はいつも通りの、お屋敷の手入れの報告。もう二通はなんだかよく分からなかった。 昔の知り合いらしいんだけど、どうにも聞き覚えが無くてさ」  とりあえず、心配させないようにはぐらかしておく。ま、嘘八百ってわけじゃない。半分だけだ。  もう片方のことは、絶対に言うわけにはいかない。 「そ、そう……。ごめんね、変なこと聞いて」 「ううん。気にしてないから」  シオン、という人からの手紙は僕の記憶次第だけれど、問題は呪いの手紙の方だ。  オーディンの口ぶりから察するに、悪意の塊であるのは間違いない。さて、どうしたものか。 「透矢、怖い顔だけど……?」 「あ、ううん、なんでもないから」  もう少し、考えていることを顔に出てしまうのはなんとかした方が良いんだろうけどなぁ……。  ポーカーフェイス、という能力には残念ながら縁が無い。 「美味しいね、この牛肉を煮た奴」 「あ、そう? よかった、上手くできたか分からなかったから……」  本当に嬉しそうにカノンは言う。アメリカの食べ物には、恥ずかしい話だが、僕はまだ慣れていない。  日本食に近い物を作って欲しいとわがままを、カノンは逐一聞いてくれた。 「透矢とこうしてご飯食べるのも、今日で終わりなのかな?」  カノンはぽつんと呟いた。 「……それはカノンが決めることだよ。ごちそうさま」  今の発言に突っ込まれると厳しいので、僕はさっさと食卓から立ち上がった。その時、玄関から声がした。ナイスタイミング。 「おかえりなさい、教授」 「やぁ、ただいま。おや、今日もご馳走だね。さって」  教授は僕に一枚の紙を手渡す。 「これが正式な調査用の書類ね。提出期限は一週間後。明日から行った方が良いんじゃない? ていうか明日から出発してくれ」 「……は?」 「期待してるぞ、透矢! さって、いただくとしようか」  るんるんという擬音が聞こえてきそうなほど、ご機嫌で教授は夕食の席に着く。さすがに明日出発というのには、カノンも驚いたようだ。 「……ま、なんとなく分かってましたけどね」  教授に聞こえるように呟き、僕は自分の部屋に戻る。旅行の準備をするとしよう。  ここに来た時と同じバッグに、さっき貰った紙や筆記用具、そしてエイボンの書を突っ込む。  あとは、適当に携帯音楽プレーヤーでも入れていこうかな。おっと、着替えも忘れるところだった。 「……一応、持って行っておくかな」  ベッドの下に手を伸ばす。すぐに感じる、冷たい鉄の感触。 「好きじゃないけどねぇ」  拳銃。僕としてはあまり好きではないけれど、カノンも居る以上、この際プライドは抜きだ。  それをバッグの中に銃を放り込む。準備完了。 「安全装置、ちゃんとしたっけ?」  ……こういうのがあるから、拳銃って好きじゃないんだよね。  次の日。  僕とカノンは朝早く、最寄りのバス停に居た。僕らの隣には教授。 「父さん、わざわざ送ってくれなくても……」 「もしかしたら今生の別れになるかもしれないからね」  さらっと教授は怖いことを言う。 「教授、怖いこと言わないで下さい」 「透矢、あの街を甘く見てはいけない」  珍しく、教授は強い口調で僕に言う。 「……肝に銘じておきます」 「ありがとう。カノン、透矢に迷惑を掛けてはいけないよ?」  教授は、僕からカノンに視線を移した。カノンはこくりと頷く。 「私だって子供じゃないの。父さん、いつまでも子供扱いしないで」 「そうかそうか、カノンもうら若き乙女だったな。それじゃ、二人とも気を付けるんだよ」  道の向こうからバスが来るのが見える。そのバスに、僕は違和感を覚えた。 「……?」 「透矢。気を付けて」  僕の方をぽんと叩いて、教授は大学の方に戻っていく。僕はカノンと一緒に、バスに乗り込んだ。  乗り込んだ瞬間、僕とカノンは顔をしかめる。 「この臭い……」 「生臭い……」  魚市場に充満しているあの臭いが、このバスの中には満ちている。客も居ない。  なるほど、インスマスは想像以上に危ない街なのかもしれないな。  バスに乗って、すぐに目に付く運転手の首にある、エラのようなシワ。それに魚のように色のない瞳。 「透矢、怖い……」  カノンが僕に身を寄せてくる。ちょっと驚きながらも、とりあえず安心できるように髪を撫でてあげる。 「ん。安心して」  そう囁きながら、僕はずっと運転手を見つめていた。  バッグの前ポケットに入れた、拳銃に手を置きながら。  二時間ほど乗っていたろうか、バスが停車した。終始無言の運転手に運賃を支払い、僕らはバス停に降りた。 「さて、ホテルに行こうか」 「ほ、ホテル!?」 「あ、ごめん。ちょっと調子に乗っちゃったね」  そういって、僕はバスに乗っている間ずっと僕にしがみついていたカノンから手を離した。 「あ、えと……」 「一緒に観光する? ……ま、この街に観光なんてするところは無いと思うけど。調査の方が似合うよね」  鞄を担ぎ直し、僕は予約を入れたホテル「ギルマンハウス」を目指した。  街の中にも、さっきのバスの中のような臭いが充満している。住民達もどこか虚ろで、狂気めいたものまで感じてしまう。  というか、住民にも数えるぐらいしか会っていない。  一度掃討作戦が行われて廃墟となったというには、おかしいぐらい家屋もちゃんとしている。ま、掃討されたのに人がいるって時点で異常だよね。 「なるほど、確かにこれは一筋縄でいきそうにない」  だが、この街になんというか……楽しさを僕は感じていた。この生臭い、狂気めいた街。その暗部を調査するというのはなかなか、胸躍る。  気が付けば、ギルマンハウスに着いていた。  今にも落ちてきそうな看板に、何か海草のような物が壁に付着している。  建物自体も老朽化は進んでいるようだが、まぁなんとか、ホテルとしての体裁は整えていると思う。  中に入ると、もう鼻に慣れてしまった生臭さが僕らを襲う。それにため息を吐きながら、カウンターのベルを鳴らした。やって来たボーイは住人や運転手と同じように、首のシワや無表情な瞳が印象的だった。  ボーイに予約していた旨を伝え、部屋に案内される。この際も終始無言。先に、僕の部屋に着いた。 「あ、部屋は二つ取ったから。カノンを預かったわけだし、そういうところはちゃんとしないとね」 「え……」  すがるような目で僕を見た後、カノンは隣の部屋に案内される。  バタンと隣のドアが閉まり、ボーイが歩いていったのを確認して、僕は部屋のベッドに倒れ込んだ。 「さすがにここは生臭くないか」  ベッドは硬いけれど。まぁ、許容範囲内だろう。  バッグから、エイボンの書と教授から貰った紙、それに拳銃を取り出す。 「とりあえず、住民には皆異様な物を感じざる終えない、っと。ここからは実地かな」 「相変わらず綺麗な字ね」  僕の背中に感じる重み。女性特有の匂いが漂ってくる。 「アテナ」 「この街、嫌な感じ」  神にまでも嫌と言わせるか。恐ろしい生臭さ。 「ここを調査する僕の身にもなってよね」 「はいはい、可哀想可哀想」  アテナはそう言いながら僕の頭を撫でる。嫌な気分はしないけれど……いや、やっぱり子供扱いは嫌だな。 「それで、どうやって調査するの?」 「それはもちろん、足だよ、足。調査は足が基本さ」  なるほど、とアテナは感心したような声を漏らした。その時、こんこんとドアがノックされる。体全体に、反射的に緊張が走る。 「と、透矢……」 「あ、ごめん」  反射的に銃に手を掛けていた。青ざめたカノンに気づき、僕は慌てて銃を仕舞う。 「こ、怖かった……。透矢、目が本気だったんだもん……」 「ごめんって。それで、どうしたの?」 「う……ひっく……」  半泣きになりながら、カノンが僕の胸に飛び込んでくる。さすがにこれには驚いた。 「だ、大丈夫?」 「と、透矢ぁ……。この街から早く出たい……」 「……そういうわけにはいかないんだ。ごめん。でも、すぐにカタを付けるから」  出来るだけ刺激しないように、カノンの耳元で囁く。だが、カノンは頑なだった。  胸元で首を横に振りながら、泣きながら僕に言う。 「ここに一人にしないで、透矢」 「……弱ったな……」  さすがに、こんなに泣いている女の子をここに置いておくということは僕にはできない。  だが、街に出ないことには教授の課題をクリアできない。  ふぅ、と一つため息。 「僕の友達に君を守って貰う。それじゃダメかな? 「え?」  心の中で、僕は名前を呟く。僕の傍らに、アレスが跪いていた。 「アレス。一晩、この子を守ってくれ」 「お安いご用。俺抜きでも大丈夫か?」 「オーディンが居る。大丈夫さ」  目の前で起きている珍事に、カノンは目を見開いている。まぁ、確かに僕の召還を見せるのは初めてだったか。 「と、透矢。もしかして、これが……」 「これが僕の召還。みんな、僕の友達だ」  アレスが、そして僕の背後のアテナが頷いた。 「ていうか、アテナ。いつの間に……」  カノンが来た途端姿を消したクセに、アテナはちゃっかり僕の背後に立っていた。  普段は透矢以外に顔は見せない、なんて言っているのに。こう、簡単に現れられるとがっくり来てしまう。 「顔を合わせるのは初めてかしら? ま、品定めは後日にするとして……。透矢、女の子を泣かせちゃダメよ」 「なんでそう、君たちって俗っぽいの?」  みんな曰く、召還主である僕にとても近いから、ということらしい。召還の理論めいたことには正直疎いので、理由は分からないけれど。 「え、えっと……透矢?」  カノンはどうしたらいいのか分からないといった表情で、僕を呼ぶ。  僕は出来るだけ、優しくささやきかける。 「僕が約束する。このアレスは口は悪いけど、腕は確かだ。必ず君を守ってくれる。それでも安心できなかったら……」  僕は後ろに隠した拳銃を取り出した。 「これを持っておいてくれ。何かあったら、使って。……カノン、本当にゴメンね。必ず、罪滅ぼしはするから」  拳銃を握らせて、僕は立ち上がった。 「必ず、帰ってくるから」  部屋を出て行く僕の後ろを、アテナがついてくる。アレスに目で合図して、僕は扉を閉めた。  正直、心が痛い。やっぱり連れてきたのはまずかったんじゃないだろうか……。  そんな僕の顔色を察してくれたのか、アテナが僕に優しく話しかけてくる。 「まぁまぁ、さっきの透矢は、及第点じゃないかしら。さ、調べるんでしょう?」  僕はアテナと話しながら、ちらとカウンターを見た。やっぱり虚ろな目で、男は僕のことを見つめている。 「あの人、可哀想に」  アテナがボソッと呟く。それが少し頭に引っ掛かりながら、僕はホテルのドアに手を掛けた。まだ時刻は夕暮れ、時間は十二分にある。  胸ポケットの懐中時計で時間を確認。 「五時十七分。とりあえず、街を回ってみよう」  こくり、と頷いてアテナは消えた。  僕はふぅ、とため息を吐いて改めて街を見渡す。心なしか、霧も出て来た気がする。いよいよ、らしくなってきたじゃない。  とりあえず、僕は海沿いに行ってみることにした。  海沿いの潮の香り、街に漂っている生臭さよりかはまだ、まともな物だ。 「調べると言っても……何を調べれば良いんだ?」  この卒業試験。僕は一体何をすれば試験をクリア出来るんだろうか。 「人に話を聞こうにも無視されるし。排他的な街だとは、ネットに書いてあったけど……。僕って話しにくそうに見えるのかな?」  軽くショック。今までは初対面の人に拒絶反応示される事なんて無かったのに。 「排他的な街。とでも書けって? ……もう間違いなく、それはアウトだよね。間違いなく」  懐中時計を見てみる。……七時四十五分。街を回ることでだいぶ時間を使ったらしい。 「二時間も彷徨ってたのか。しっかし、あれだけ言ってカノンを置いてきた以上、何もありませんでしたとは言えないよね……」  男の面子に賭けてそれは出来ない。  かといって、住民からは聞き取れないし……。 「はぁ……どうしよ」  海に黄昏れる十六歳。絵にもなんにもならないな。 「日も落ちたし……。戻ろうかな」  夏とはいえ、すっかり日も落ちている。しょうがない、ホテルに戻ろう。教授には悪いけれど、今回はしっぱ……。 「ひ、ひぃえぇぇえぇぇぇぇぇぇ!?」  どこからともなく聞こえてくる悲鳴。女性の物のようだけれど、カノンじゃない。 「やれやれ……」  せっぱ詰まっている雰囲気が滲み出ている。ぼや騒ぎであることを願って、僕は声の方へ走り出す。  その悲鳴は、ホテルのカノンにも聞こえていた。 「え……? でもこれ、透矢のじゃない……」  カノンの呟きに、ベッドの上であぐらを掻いているアレスは頷いた。 「あぁ、あいつのじゃない。女だな。ま、あいつが助けに行くだろ。……どれ。嬢ちゃん、ちょっと離れてな」  アレスは腰の鞘から剣を抜く。そして、おもむろに扉に剣を突き刺した。向こうから聞こえてくる、とても人間の物とは思えない悲鳴。 「え!?」 「なるほど。透矢がここに来させられるわけだ。……嬢ちゃん、窓の方に気を配っておいてくれ。俺はこの扉を守る」  そう言って、アレスは扉を開け放つ。扉の向こうには、バスの運転手や住人の首のシワがそのまま突き出たようなエラ、 そして人間の物とは思えない魚の顔。恐らく、服の下も鱗やらで覆われているのだろう。  同じような魚人達が廊下にひしめいている。 「まるっきり狂気の世界だな」  そう言って、入り口に詰めかけてくる魚人をアレスは無情に薙ぎ払う。が、魚人達は次々と扉に向かってくる。 「魚は嫌いなんだ」  そう言って、薙ぎ払った魚人の息の根を完全に止めた。 「透矢。気を付けろよ……」  僕はインスマスの街を走っていた。僕の後ろには無数の魚人、としか言いようのない変わり果てた住民達。  みんな僕を狙っているらしい。僕は魚料理は好きだけれど魚は嫌いだ。  とりあえず、僕は悲鳴のした方に走っている。それ以来、悲鳴は聞こえてこない。 「無事でいてくれよ……」  あの声からして日本人だ。だから、というわけではないけれど、余計に助けてあげたかった。  それと、一応気休めに、僕は鉄パイプを拾っていた。まぁ、殴る分にはこれで事足りるだろう。  ま、さすがにこの状況では多勢に無勢。僕は悲鳴のした方へ走る。逃げてるんじゃない、走ってるんだ。 「こ、来ないでぇぇぇぇ!」  また聞こえてきた悲鳴。 「見つけた……」  二階建ての建物の二階の方から声がした、と思う。というか、二階の半開きの扉から光が漏れ出している。  そこに向かって一直線、僕は半開きの扉を蹴り倒した。 「だ、」  誰? と、女の子はすがるように僕を見つめていた。安心させるように笑って、尋ねる。  やっぱり日本人の女の子。黒いショートカット、黒い髪と黒い瞳に懐かしさを覚えてしまう僕って……。 「無事かな?」  なんて言いながら、女の子を壁の隅に追い詰めていた魚人を後ろから殴り飛ばす。 「え、あ、その……?」 「あ、安心して。僕こんな生臭くないから」  なんて言いながら、次の魚人を殴り倒す。そして、女の子に手を差し出す。 「自己紹介とかは後で良いかな? 今はここを出よう」  そう声を掛けて、僕は女の子と一緒に扉から飛び出した。目の前に飛び込んでくる魚顔、反射的に蹴り倒す。 「映画みたい……」 「どうも。次も映画みたいだよ」 「へ?」  二階の柵から、了承を取らずに女の子を抱えて飛ぶ。  見えてくる地面。そして迫る魚人達。その真ん中に僕は、不格好に着地した。魚人達が、目の前に迫ってくる。 「オーディン!」  僕は力の限り空に叫ぶ。その瞬間、僕の傍らにはオーディンが居た。 「任せた」 「任せておけ」  僕の言葉に、オーディンは不格好に笑う。  そして、大降りの槍をオーディンが振るう。その瞬間、何か、とんでもない力が辺りに広がった。  戦争と知識を司り、また最強の魔術師でもあるオーディンにとって、人間が成り代わったに過ぎない魚人達を屠るなど造作もないことだ。  そして、一人間である僕が、その力の正体が分かるはずもない。 「どう思う?」  槍を振るって片っ端から薙ぎ払っているオーディンに尋ねる。もちろん、この化け物じみた住民達のこと。じみたじゃないか、真性の化け物だ。 「魔術的な物ではないな。もっと深いところにこれの原因はある」  言っている側から容赦なく、魚人達の胸をぶち抜くオーディン。 「きゃ……」  女の子の足を魚人が引っ掴もうとしている。が、その手は見えない壁に阻まれた。 「さっすが。守護神だけのことはあるね」 「私が珍しく仕事をしたみたいに言わないで。これでも、常日頃から透矢のこと、守っているのよ?」  アテナが拗ねたような表情で、僕の背後に浮かんでいた。 「ごめん。ちょっと見直した」  アテナと喋りながら、僕は頭の中でどうすべきかを考え続けていた。もう、こんな街に長居をする必要はない。  侮るな、うん、まともな街じゃないね、ここは。  ここに僕らを送り込んだ教授に恨み節を心の中で呟きながら、次のカードを切ることにした。 「ヘルメス」  呼びかけた僕の声に答えて、僕の隣に、鐔広帽子を目深に被り、杖を持った青年が跪いていた。彼はギリシャ神話の伝令の神、ヘルメス。 「珍しいな。お前がここまで自分の手駒を晒すなんて」 「それは良いだろう? アレスと、一緒にいる女の子に伝えて欲しい。この街から出来るだけ早く出るようにって」 「お前は?」 「とりあえず、やれるだけ駆逐する。一区切り付いたら、必ず戻るって伝えて」 「……了解。死ぬなよ」 「それは僕の周りにいる神様達に言って欲しいね。急いで、ヘルメス!」  こくりとヘルメスは頷き、その場から霧のようにかき消える。  その一連の動作を、女の子は目を見開いたまま見つめていた。 「あー、えっとね……」  何を話せば良いものか。と、考えている側から魚人が飛びかかってくる……が、それも見えない壁に弾かれた。 「とりあえず、ここにいる間は安全だから。多分」 「私を欠陥品みたいに言うなー 多分とか付けるなー」 「はいはい、ごめんごめん」  この人、本当に女神なんだろうか。召還している僕が信じられなくなってきた。まぁ、一応女神だから、うん。そういうことにしておこう。 「でも透矢、どうするの?」 「ん?」 「駆逐するっていっても、この人達多分……どんどん湧いて来てるわよ?」 「湧いて?」  またまた、虫みたいに言って……。が、アテナの言葉はビックリだった。 「うん。普段はほとんどの住民は海の中に潜んでいるみたいね。 そして、あなたみたいな不運な旅行者が通りかかったら、仲間に引き込むかデザートにしているんでしょう。今も、浜辺にどんどん上陸してるわ」  なんとまぁ、カニバリズムにして狂気の世界。本当、この街は侮れないね。アテナの表現の上手さはなかなか。伊達に神様じゃないのかな。 「今のいただき。レポートに使わせて貰うね」 「ありがと。バイ、僕の女神とか書いておいてね」  いや、本当に庶民的ですね。あなた。さっき、心の中で呟いたことを全力で取り消す。  まぁそれはさておき。無限に出て来られるとなると……。 「“出来るだけ”倒して退散しよう」 「それが良いと思うわ」  オーディンに目で合図。こくり、とオーディンは頷いた。 「ここに居る者達だけでも蹴散らすぞ」  魚人達が集まっている中央部で光が爆散。内心えげつないなーなんて思いながら、僕は近付いてきていた魚人を鉄パイプで殴り倒す。 「あなたも十分えげつないと思うわ。主に武器が」 「しょうがないだろ!? 適度に強度があって扱いやすそうなもの、これしかなかったんだよ!」  起き上がった魚人の胸に鉄パイプを突き刺す。 「それにしても、もう少しセンスの良い武器を……」 「オーディン」  もはや、虐殺だった。魚人達は片っ端から魔術や槍で吹っ飛ばされ、漏らさず息の根を止められていく。 「ヘルメスが来るまで待った方が良いだろう。……遅いな、あいつ」  窓の向こうから、何か突っ込んでくる。悲鳴をあげる前に、それは部屋の中に飛び込んできていた。ガラスも割らずに、 「きゃぁぁぁぁぁぁ」 「待て! ウェイト! 俺は味方! 透矢の使い!」  鐔広帽子を被った男は懸命に私に訴えてくる。手には杖。……この人、魔法使いっぽい。 「あ、アレス?」  とりあえず、部屋の前で魚人達を裁いてくれているアレスを呼ぶ。魚人達は一匹も、この部屋には入ってきてはいなかった。 「今俺お取り込み中! あぁ、中央部じゃ化け物が暴れてるしよ……。くそ、俺もあっちのパーティーに参加したかったぜ」 「招待状付きだぜ、アレス」 「ヘルメスか。どした? あらよっと」  グサッという生々しい音とグエェという悲鳴。簡単に彼はやっているが、元は人間だったんだと思うと、心が痛い。 「嬢ちゃん、あれは化け物だから気にしないが吉。で、伝言だが……。出来るだけ早くこの街から出るように。 透矢達は出来るだけ、この連中を駆逐して回るそうだ」 「く、駆逐って……」 「妥当だな。こんな化け物だらけの街でも化け物さえ居なくなれば、ここはただの廃墟だから、な!」  また、グエェ。吐きそうになってしまう。  そんなこと気にせずに、神様達は会話を続ける。 「ヘルメス。透矢に伝えてくれ。俺は嬢ちゃんを連れて、先に街を出てる、ってな」 「了解了解。それじゃ、幸運を祈るよ」  私たちの前でヘルメスはかき消えた。この非日常すぎる光景に、私は違和感を抱けないでいる。それが驚きだった。 「嬢ちゃん。透矢をどうか、嫌いにならないでやってくれ」 「え?」  私があの人を嫌いになれるはずがない。そんな簡単に諦められるような思いなら、私は付いてきてなんて……。 「要らない心配だったか。嬢ちゃん、銃は持ったな?」 「持ったわ」 「そんじゃ……」  アレスは扉の前に姿を現した。鎧は、人間の物とは思えない色の血で染め上げられていた。顔にも返り血が付いている。そして、生臭い。 「行こうぜ」 「う、うん」  もう、廊下に魚人達は居ない。どうやら、アレスが一人で殺しきったようだ。  足下にはそれこそ、市場で売られているような魚の目をした魚人達が転がっている。  死体を踏まないように気を付けながら、私はアレスに付いてホテルを出た。  あ、そういえばボーイみたいな魚人も居たような……。もう死体だったけれど。  ヘルメスが帰ってきた。 「任務完了っと」 「二人は?」 「外に出たと思うぜ。な? 俺も参戦して良いか?」 「へ?」  ニヤリ、とヘルメスは笑ったに違いない。 「一人より、二人だろ?」  はぁ、と僕はため息。もう、言っても聞くわけがない。 「道を切り開いてくれ」 「格好いいな。惚れるぜ」  と、言いながらヘルメスは杖を持って魚人の群れに突っ込んでいった。あれでもヘルメスは魔術師。それも、それなり以上に優れた魔術師だ。 「後は二人に任せておけば良いか」  乱れ飛ぶ衝撃波、炎、怒声、グエェといううめき声。 「……君、なんでこんな街に?」  僕は、ずっと後ろでへたり込んでいた女の子に声を掛ける。ようやく、他人を気にする余裕が出て来て良かった。 「その……友達が、ここで行方不明になって……」 「友達?」 「そ、そう。こっちに一緒に来てた友達なんだけれど……」 「……まぁ、無事じゃないだろうね」  仲間入りして、オーディンに空高くぶち上げられているか、それとも彼らの夕食になってしまったか。 「その前の日ぐらいからずっと、様子がおかしくって……。呼んでる、とかうわごと言ってて……。 それで、起きてみたら居なくなってて……」 「……ふぅん」 「ねぇ、あの子も化け物に……」 「分からない。そういうのに詳しい人が僕の知り合いにいるから、紹介してあげる。今は、この街から出るのを優先しよう」  女の子を立たせて、魚人達の様子を窺う。オーディンがここぞとばかりに、大きな花火をぶち上げた。 「今だ!」  空を舞う魚人達の下をくぐって、僕らは駆け出す。走ればその内、出口に着くと信じて。  どれだけ街の中を駆け抜けただろうか、さすがに息も切れ切れだ。 「大丈夫?」 「う、うん」  短い髪を揺らしながら、女の子はなんとか僕に付いてきていた。  ここは多分、街の外れ。先頭を切って魚人達を蹴散らしてくれていたオーディンは、息一つ切れてはいない。 「だいぶ、街の外に近付いているぞ。連中ももう、追ってきてはいない」  ホッと息を吐いて、僕は地面にへたり込んだ。 「オーディン。彼らはなんで……?」 「異種との混血。それも彼らの先祖、とでも言うべき段階での混血だろう」 「でも、なんでそれが街全体に……?」 「分からん。お前の師にでも聞いてくれ。さぁ、もう一頑張りだ。行くぞ」  なおも走り出す一行。体力は限界だけれど、頑張らないと……。  その後、カノンといつ、どうやって合流したか覚えていない。かなり、僕は相当消耗していたらしい。よく召還が維持できたものだ。  まぁ言えることは、無事にカノンを助け出して、そして女の子も僕も五体満足であの魚の街を脱出できたって事。  翌日、僕はカーター教授の所に最初に向かっていた。 「教授。レポートをまとめてきました」 「昨日もう、ボロボロで帰ってきたのに。よくやるねぇ。あ、それであの街で助けた女の子は?」 「彼女は自分のホテルに戻りましたよ。友達が見つかった時のために、連絡先も一応聞いておきました」 「それは何より。それで、あの街は?」 「僕やカノンに染みついた臭いで分かるでしょう? 魚でした」 「だろうねぇ」  教授はいやらしい笑みを浮かべながら言う。あぁ、殴りたい。あぁ、殴りたい。でも我慢して、教授の解説を聞く。 「インスマスという街はね、かつてのあの街の名士の思いつきによって、人々が魔の者達と交わってしまったんだ。 その血は消えることなく、今日まで受け継がれているというわけさ」 「……政府が駆逐したのも頷けますね」 「ま、それも失敗したようだけれど。調査報告、お疲れ様」  教授は僕が、結構命を賭けて作り上げたレポートをさらっと読み流し、手早くはんこを押した。多分、Aだ。  この大学に卒業式なんて期待してない。僕は、ミスカトニック大学の卒業資格を、この瞬間手に入れただけさ。  これで晴れて僕は自由の身。さぁ、自由を満喫しに行こうじゃないか。  僕はさっさとこの部屋を出ようとして、言わなければならないことを思い出した。 「教授」 「ん?」 「僕、日本に帰ります」  出来るだけ、さらっと、紳士的に言ったつもり。さらっと流してくれないかな、教授。  少しして、教授は頷いた。 「分かった」 「四年間、こんな僕を育てていただいて、ありがとうございました」  教授に向き直って、深く、深く一礼。僕がこの人に見せられる感謝の形は、これしかないから。 「君は、私の最初で最高の生徒だよ」 「……本当に、ありがとうございました」  実は、扉の外に荷造りをすませたバッグも置いてある。僕が思うに……。 「期待して目で見ないでくれ。ま、期待には応えるけれどね」  教授は僕に一つの封筒を投げて寄越す。予想通り、日本行きの飛行機のチケットだった。  さすがとしか言いようがない先見の明に改めてあきれながら、僕は教授の部屋を辞去した。  扉の前に置いてあったボストンバックを持って、僕は歩き出す。ミスカトニック大学の外へ。 「どこ行くの?」  不意に掛けられた声。聞き慣れた声に、僕は笑顔で振り返る。 「やぁ、カノン」 「やぁ、じゃなくて。その大荷物、何? 今朝も色んな所に電話掛けてたし……」 「あぁ、お礼を言って回ってたんだよ。顔を見せたかったんだけど、そうも出来そうにないから」 「やっぱり、帰るんだ」 「うん。ここでやるべき事は、全部済ませたから」  出来るだけ、淡々と言葉を返す。 「これ、返そうと思って」  ハンカチにくるまれた拳銃を、カノンは僕に手渡す。 「確かに。……日本には持ち込みたくないんだけど」  カノンが持っててくれないかな、と、僕は押し返す。もともと、拳銃は好きじゃない。 「それは出来ないかな、透矢」 「……やっぱり嫌?」 「そ、そうじゃなくて……。その……」  カノンは言いにくそうだ。女の子が拳銃を嫌がるなんて、別に自然なことだと思うけどな。 「あ、あの街の臭いが付いてるから……とか?」 「違う違う。あのね……」  カノンは、僕の封筒をそっと指差した。 「これ?」 「開けてみて」  言われたとおり、僕は封筒を開く。中には……もちろん、飛行機のチケットだったのだけれど。 「二枚……?」  そう二枚。そして、なんとなーく、もう一枚の正体が見えてきた。 「一枚、ね。私がずっと食堂でアルバイトしてたお金で、買ったの。あと、向こうで使う日用雑貨とかに使っちゃって」  話が全く見えない。  いや、見えてはいるんだけど。全力で現実逃避してるだけなんだけど。 「え、あ、その。これ、もちろん教授も……」 「うん。もちろん、許可は貰ったよ」  許可したのかあのバカ教授!? 「ごめん、殴ってくる」 「ちょ、ちょっと待って!」 「一人娘を海外に、しかも一人暮らしの男の家に住むのを許可するのかあの人は!?」 「お、落ち着いて、透矢!」 「昔から人間離れしてるとは思ってたけど、ここまでとは……」  常識? あの人に通用するなんて、そんなお気楽な考えはもちろん無かったけどね。いや、それでもそんな所行に打って出るとは……。 「透矢」 「ん?」  呆れと怒りがまぜこぜになっている僕をカノンが呼ぶ。その声色はとても落ち着いている。 「私が一緒にいるの……嫌?」 「いや、嫌というわけじゃ……」 「その、ね。私がわがまま言ったのが珍しかったから、許可してくれたんだと思うの。 だ、だから、その、チケット代も私が出したし、向こう用の雑貨も買っちゃったし……」  言っていることが滅茶苦茶になってる。そこに突っ込むのはひとまずやめておいて。……ようは、後には引かないと。そう言いたいわけか。  はぁ、と僕は深いため息。確かに、向こうの家は部屋は有り余っているし、住む人が一人増えたところで問題はない。  そう、ここは僕の切り替えの問題だ。そう、全くもってその通り。  こんな可愛い子と一緒に暮らせるんだ、ラッキーぐらいに思えるようになれば良いはずなんだ。  だけど、やっぱり……。 「良いの?」 「私がしたいから、するの。お願い、透矢」  お願い、と来たか。目をうるうるさせながら僕を見つめるカノンに、僕は……。  あぁぁぁあ!! 頷くしかないだろうが! 「分かった。うん。分かった。……それじゃ、その、これからもよろしく」 「うん!」  カノンは僕の腕に飛びついてくる。こ、これは気恥ずかしい……。  顔から火が出そうになりながら、僕は再度歩き出す。目指すは、ほとんど覚えていない故郷、日本。  ちょっとした気恥ずかしい幸せをかみ締めながら、僕は歩み出した。