第二話「春の珍事」  穏やかな日差しを一身に浴びながらの休日の読書。これほど素晴らしい物はない。 「これで紅茶もあれば完璧なんだけどね」  手元にあるのはペットボトルの某午後の紅茶。それをたまに思い出したように飲むのが良い。 「はぁ……。良いですねぇ、日本の春」  僕は日本に戻ってきていた。とはいっても、向こうに居たのは実に、一年前の事。  もう日本に戻ってきて、一年になるのだ。  僕が今寛いでいるのは、八上邸の書斎。かつては父が主だった部屋に、僕はいる。  ちなみに今は春休み。あぁ、僕とカノンは地元の高校に編入したんだ。  僕はともかく、カノンが馴染めるのか心配だったのだけれど、持ち前の可愛さで男子に敵は作らなかった。  女子には持ち前の性格の良さで、上手く立ち回ったようだ。  え? 僕? 「あんな可愛い子と毎日一緒に帰ってたら、そりゃ睨まれるよね。しょうがない事なんだけど」  いやいや、怖い先輩や同級生の魔の手からカノンを守るのにどれだけ僕が頑張ったか。  あ、いや、それはまた別の話なんだけれど。 「ふむ……飽きたな」  魔術理論という奴はやっぱり理解するのが大変だ。  僕のような実践派にとって、理論というのはもっとも遠い単語だけに、余計に。 「あ、ちょっとばかり解説しようか」  僕の日本行きに無理矢理付いてきたカノンは、結局小凪(こなぎ)の街にまで付いてきた。  いやまぁ、もう日本に来てしまったら僕の家に来るしかなかったのだろうけれど。  僕の家がある小凪市は都市圏とはとても思えない、都市圏の端の端にある。  小凪の街にタクシーから降りた時、カノンは驚きの声をあげていたのを覚えている。 「わぁ……。これが透矢の故郷なんだ」 「へんぴな所でしょ? マサチューセッツ州と比べたら」 「でもミスカトニック大学より、全然人間っぽい気がするね」 「それは多分、あそこがおかしいだけだと思うけれどね……。ま、僕の家はあの大学と同じ感じかもしれないな」  そんなことを話ながら、僕とカノンは歩いて八上邸に向かうことにした。  駅から徒歩二十分ほどしたところの坂の上に、僕の家、八上邸はある。 「相変わらず、変わってないなぁ……」  滅茶苦茶古めかしい家の門を開ける。キィーっと音を立てながら、門は開いた。 「さすがに庭は綺麗かな。ありがたいありがたい」 「私が知ってる日本、っぽくないね」 「まぁ、この庭は日本庭園じゃないからね。どっちかっていうと海外のガーデニングって感じかな」  僕の家を解説しながら、家の中への扉に手を掛ける。鍵はこの四年間、ずっと持っていた。 「いや、また使う日が来るとはね」 「……透矢?」 「正直、四年前は帰ってくるなんて思ってなかったから。なんせ、この家に押し掛けてきた教授に、僕は連れ去られたようなものだし」 「え……!?」 「ま、色々あったんだよ、色々」  本当は色々なんてないけれど。  ただ押し掛けてきたイギリス紳士が無断で僕の部屋に入り込んできて、僕と本を持って拉ち……じゃなくて、保護してくれただけさ。 「カノン、部屋はどこ使う?」 「どんな部屋があるの?」 「一階は使用人用の部屋だけかな。正直、手狭な部屋だしお勧めしないよ。 二階は僕の家族用の部屋で広いけど、今は僕の部屋しか使ってないから、余ってる」 「そ、そうなんだ……」 「まぁ、どっちの部屋でも人が寝泊まりできるようにはしてあるから。安心して」 「透矢はどの部屋を使うの?」 「父さんの部屋を使おうかな、なんて。あの部屋は書斎に隣接してるし」  僕がここに帰ってくる決め手となったのが、父の書斎の存在だった。  やっぱり、一番思い出もあるし、興味もあるからね。父さんが何をやっていたのか、とか。 「……透矢と一緒が、良いかな?」  一瞬凍る僕の時間。 「……は、はいぃ!?」  そ、その発想はなかった。  僕がたじろぎまくっていると、カノンが悪戯っぽく笑った。 「冗談だよ? ……本気にしちゃった?」 「じょ、じょう、冗談……」 「本気の方が良かったの?」 「い、いや、ちょっとホッとしたよ……」  万が一にも本気だったら僕、どうすれば良いんだ。 「部屋、見て回って良い?」 「あ、うん。左手にある階段から、二階に行けるから。僕、台所とか客間の様子見てくるね」  そう言って、僕とカノンは階段の前で別れる。  僕は使用人用の部屋を一つずつ覗き込みつつ、台所へ。 「うんうん、どこも綺麗だね。さて、」  覗き込むのは台所。さすがに虫の気配とかを覚悟したけど、どうやら黒い例のアレとかは居ない様子。 「業者さん……ありがとう!」  心の中、そしてリアルに合掌。 「客間も大丈夫っぽいね」  掃除業者は侮れなかった。掃除は家の隅々にまで行き届いている。 「さて、上行こうか」  僕もカノンと同じように階段を上がっていく。  こんこん、と僕は階段を上ってすぐの部屋……確か、母さんの部屋だったかな。 「居ないか」  この廊下の突き当たりが父さんの部屋、母さんの部屋の隣が……昔の僕の部屋。  僕は自分の部屋にノックするという事に、微妙な感じを覚えながらもとりあえず、ノックする。 「透矢?」  ひょこっとカノンが顔を出した。 「ここは誰の部屋だったの? すっごく綺麗になってて、よく分からなかったけど……」 「ここは僕の部屋だよ。あ、昔のだけどね」 「ここが昔の透矢の部屋なんだ……。へぇ」 「二階はここと、後は父さんの部屋だけど……。ごめん、父さんの部屋は僕が使いたいんだ」 「それなら、私は透矢の部屋か……お母さんの部屋だよね?」  カノンは物珍しそうに部屋を眺めている。私物はほとんど向こうに引き上げたから、今は何もない。 「何もないけど……気になる?」 「……それじゃ、私、この部屋が良いかな。透矢の部屋も近いみたいだし」  何やらカノンはこの部屋に腰を落ち着け始めたようだ。  荷物の中身なんかもベッドの上とかに散乱してる。……見ないようにしよう。 「あの、さ……」 「何?」  実に、実に言いにくいんだけれど。 「そのさ、これから食事をその、作ってもらいたいんだけど。いや、嫌なら」 「嫌なんて事ないよ。そんなことより……透矢、もし私が来なかったら、ご飯とかどうするつもりだったの?」 「いや、コンビニで済ませるつもりだったけど……」  はぁ、とカノンはため息。そこはかとなく失望させてしまったような気がする。 「よかった、私透矢に付いてきて」 「……あははは、カノンの美味しい料理が食べられるなら嬉しいよ」 「それじゃ、準備してこないと……」 「あ、さすがに今日は料理なんてしなくて良いよ。 疲れてるでしょ? 出前とかは……あ、ダメだ、四年前の電話番号じゃ繋がるわけない」  仕方がない、後で買い物に出るとしよう。 「僕、荷物とか置いたら買い物に出るから。カノンは休んでいて」 「それじゃ、その間このお家、探検してて良い?」 「……そんなに回るところはないと思うけど……。それで良いなら、僕、出てくるね」 「うん。行ってらっしゃい」  カノンの明るい声に軽く笑いながら、僕は部屋の外に出た。  なんていうか……昔使ってた部屋を女の子にが使うっていうのは恥ずかしいな。  なんて思いつつ、僕はかつての父さんの部屋に荷物を置いて、再度八上邸から外に出た。  僕は駅前のハンバーガーで有名なファストフード店で適当にセットを二つ買い、 ついでに食事の材料も買い込んでおくことにした。  たくさんの物が入ったビニール袋を両手に持って、八上邸にとって返す。  さすがに両手に一杯の荷物を持って二十分、しかも坂登り付きはキツイな。 「まぁ、あの魚人さんから逃げることを思えば楽だけどね……」  アレは近年稀に見るキッツイイベントだった。  家に着き、台所の冷蔵庫に(業者の人に頼んで、買っておいて貰った)材料を詰めて、二階に戻る。  着替えイベントというのは出来るだけ避けたいから、また自分の部屋にノック。 「入るよ、カノン」 「うん」  カノンは部屋着に着替えて、ベッドの整理をしていた。 「ご飯、といってもファストフードだけど……。食べる?」 「うん。ありがと」  僕はビニール袋から紙袋を手渡す。 「チーズ嫌いだったよね? 入ってないのを選んだんだけど」 「覚えててくれたんだ」 「チーズフォンデュで半狂乱になったのはしばらくは忘れられないよ。うん」  いつぞやか教授が買ってきたチーズフォンデュのセットに怒りを露わにしていたのは、なかなか忘れられない。  チーズまみれの物を食わすな! とか叫んでいた覚えがある。 「……は、恥ずかしいから忘れてよ……」 「どうしよっかなぁ〜」 「意地悪しないで、もう……」  なんて言いながらカノンはハンバーガーにかぶりつく。  ベッドの上で食べるのはどうかと思ったんだけど、まぁ本人は気にしてないみたいだし、良い……のかな?  僕もお腹減ったし、ハンバーガーを食べることにする。  元僕の部屋に流れる、穏やかな空気。やっぱり食事って良いよね。 「透矢、これからどうするの?」 「とりあえず高校に通おうかなぁって思ってる。何もせずにちゃらんぽらんやってるよりはマシだと思うし」 「私は……どうしよう?」 「それは自分で決めないといけないと思うな。あー……お金とかは、まぁ」 「お父さんがそれなりに出してくれるとは言ってたから。ハイスクールか……」  そういえばカノン、学校はどうしていたんだろうか。向こうにいた頃はずっと気にしてなかったんだけど……。 「カノン……あのさ」 「……お父さん、その、ケチっていうか……。うん、無駄なことにはお金を使いたがらなかったから」 「中学は……」 「行ってないよ」  少しバツが悪くなって、僕はカノンから目を逸らした。  聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。 「……やっぱり、カノン。高校行こう」 「え?」 「勉強とかは僕が教えるし、ほら、人生一回キリじゃない? 青春も一回キリだし、楽しまないとさ」  カノンは、嬉しそうに笑った。そして、 「透矢!」 「ちょ、ちょ」  ぎゅ〜っと僕の首に回される両腕。顔とか近い、体も近い!  嫌が応にも緊張してしまう僕、そんな困りまくる僕を気にする様子もなく嬉しそうにカノンは抱きついてくる。 「それじゃ……一緒に学校行こうね? 透矢!」 「う、うん。だから、その、ちょっと……」 「ん?」 「は、離れて欲しいかなぁ……なんて。思ったり、思わなかったり……」  それでようやく密着していることに気がついたのか、カノンは慌てて僕から離れた。  心なしか顔が赤い気がする。 「ご、ごめん透矢……」 「ううん、気にしてないから」  嘘です、めっちゃくちゃ気にしてます。心臓ババックバック言ってるよ。  顔に出ていないか怖い。 「ほ、ほんとごめんね」  な、何か話題を変えるネタは無いだろうか……。あ、あった!  女の子が大好きなお風呂という奴が。  そういえば……向こうに居た頃は全然気にしてなかったなぁ……。 「……あ、お風呂とかはどうする? カノンの後に僕が入ったりとか、僕が前に入るのとか、抵抗があるなら言って欲しいんだけど……」 「そういうのは無いよ。でも、そうだね。順番とかは決めておかないと、色々トラブルがありそうだしね……」  過激な、っていうか行き過ぎたスキンシップには慣れているが、裸で遭遇とかはしたことがないからなぁ……。できれば避けたいし。 「今日は汗かいたり疲れたりしていると思うし、後でゆっくり入る?」 「透矢がそれで良いなら。お言葉に甘えちゃおっかな」 「それじゃ、先に僕入ってくるね。お湯の調子とかも確かめないといけないし」  久々の我が家での入浴。ちょっと湯張りとかに手間取ったものの、なんとかお風呂を人が入れる状態に持って行くことが出来た。  僕の家のお風呂はまぁ、非常に豪勢だ。どこぞの旅館にも匹敵する、なんて言っても過言じゃない。  まぁ、一応父さんも母さんも、それなりに有名な人たちだったしね。見栄張りだったし。  だから、僕の家も周りの家にお構いなくな超豪華な家だしね(比較対象は少ないけれど)  そんな居なくなった家族のことを思いながら、僕は今、館の主となった気分を味わっている。  そして、今はお湯に肩まで浸かって日本の風情に浸っている。 「良いねぇ、やっぱり自分の家のお風呂って……」  なんて呟きながら、僕は持ち込んだサイダーのペットボトルに口を付ける。  冷たい炭酸が体中に染み渡る。 「これが良いんだよねぇ〜」  なんとなくおじさん臭いなぁ、なんて思いながら僕はサイダーを飲む。 「ま、カノンに不自由はさせなくて済みそうだし、僕も不自由せずに済みそうだし、よかったよかった」  なんて、独り言をぶつぶつ呟いていると、 「わー。日本のお風呂ってこうなってたんだ……」  ……あん?  ていうか、え?  僕はもう大慌てで浴槽の端の端にまで逃げ出した。 「透矢ー?」 「……あ、あの、ちゃんと、服は着てるよね……?」  一応確認。これがなされていないようなら、僕は全力で逃げ出すしかない。  これからのこういう関係の維持のためにも。 「お風呂に入るときに、服は着ないよね?」 「……ぼ、僕出るね」  絶賛逃げ腰の僕。  さすがに、その、裸はもう、いろんな場合でアウト、だよね……? 「大丈夫だよ。ちゃんとタオルで隠してるし……。一緒に暮らすんだし、これぐらい気にしないで欲しいな……」  凄く悲しそうな声色。僕が十歳ぐらいの時だったら気にしないけどね。純粋な青少年には刺激が……。 「うー……」  なんてうなり声の後、たたたっと走る音が聞こえてきた。  その速度は転ぶ、そう思った瞬間。 「きゃっ!?」  ビターン! という大きな音が聞こえてきた。  思わず、僕はため息。 「あー、えっと……大丈夫−?」 「だいじょうぶくない……。痛い。鼻の頭打っちゃった……」  本当に痛そうだ。仕方が無く、僕は頑張って前とかを隠しながら、音が聞こえた方に近付く。  そこには案の定、うつぶせにぶっ倒れているカノンが居た。 「立てる?」 「う、うん。鼻痛いだけだよ……」  僕の手を取って、カノンは立ち上がる。良かった、自分の体を守るバスタオルはちゃんと巻いてくれていた。 「ちょっと腫れてるね。後で軟膏塗ってあげるから」 「透矢の体……初めて、間近で見たよ」  ささやくような声。その声を聞いた途端、カノンの息遣いが妙にリアルに聞こえてくる。 「こんなに近くにいるの、初めてだよね?」  僕の記憶が正しければ、こんなに密着したのは初めてだ。  そして、こんなに意識したのも。 「卒業試験の時も、側にいてくれなかったし……」 「…………」  僕はここで思い知らされた。思い知らされた、というよりは、気付かされた。  僕があの街で、カノンをどれだけ怖がらせてしまったのか。  見知らぬ男が元人間、現在魚人を斬り倒すという異常な状況の中を、孤独な状態であの街を走らせたんだ。 「カノン」 「あ、あの人は何も言わずにどんどん、化け物を斬り倒していくし……。あんな中走らされるし……」 「……守るって言ったのに、本当の意味でカノンを守れてなかったね。……ごめん」  これは、僕が出来る最低の謝り方だった。良い謝り方なんて分からない。  ただ、僕は謝り続けた。  どれくらい謝り続けただろうか。すっかり体が冷え切ったことで、急に現実に引き戻される。 「さむっ……」 「あ、と、透矢。ご、ごめんね、湯冷めしちゃってるよ……」 「あ、いや、入り直すから良いよ」  さすがに僕としても、帰国早々風邪を引いてカノンに迷惑をかけたくない。 「……一緒に入って良い?」  ダメ、と言おうとしたその時、カノンは小悪魔の表情になっていた。 「……透矢の私への罪滅ぼしって事で」  こう言われては敵わない。  僕は出来るだけ素早くカノンから離れて、浴槽の隅の方を陣取った。  ひたひた、と慎重に歩きながらカノンも浴槽に入って、そして僕の隣に腰掛けた。 「透矢」 「ん?」 「本当に、怖かったんだよ?」  イタズラっぽく、本人は言っているつもりなのかもしれない。  ただ、カノンは小刻みに震えていた。  僕は抱き締めてあげたくなる衝動を抑えて、左手を伸ばして、カノンをこちらに引き寄せた。 「二度と」 「え?」 「二度と、カノンを傷付けないから。僕が守るから。……それで、良いかな? カノンへの罪滅ぼしは」  これが僕なりの精一杯の答え。  カノンの答えは、左肩に感じる重みだった。 「ごめん……」 「もう謝らなくて良いよ。……ありがと、透矢」  今思うと、自分でもこっ恥ずかしくなるような事をした物だと思う。 「……思い出して自分が恥ずかしくなってきた」  ちなみに、あの時の誓いは、僕の中で生き続けている。  彼女が僕の側にいる限り、僕は彼女を守る。本当の意味で、彼女を守る。 「春休みの昼間っから何考えてるんだろ……。春だからかな?」  春だから、普段より頭の内部がお花畑なんだろう。いつもそうだってわけじゃない、断じて。 「男らしい子は好きよ」 「アテナ……」  書斎のソファーの所に、アテナが座っていた。穏やかに笑っている。 「女の子を守る、これぐらい男らしい事ってないじゃない?」 「そんな僕を守ってくれるアテナを、僕は便りにしてるんだからね?」 「ありがと、透矢」  何のために現れたんだろうか。あまり、彼らは無駄に登場したりはしないんだけれど。 「透矢。同業者の匂い、感じる?」 「……魔術師?」 「近いけど遠いかしら。そんな純正、って感じじゃないのね。だから、その子も反応してない」  その子、とは日向でくつろいでいる僕の愛犬のこと。あの、魔術に反応する子ね。 「少し出てくる」 「戦うの?」 「出方次第か……」  その時、僕らの張り詰めた空気をぶち壊す音が響いてきた。  ぴんぽーん。ぴんぽーん。 「お客様?」 「僕が出てくる」  ここ一年、ミスカトニックに居た頃ほど危険に関しては敏感ではなくなった。  何せ、危険も狂気も身近になかったからね。強いて言うなら、春らしくない異常な暑さはあるけれど。  僕が一階に下りていくと、ちょうどカノンが玄関に向かうところだった。 「透矢。珍しいね、チャイム鳴るなんて」  カノンは、僕の家で家事とかをやったりして貰いながら、一緒に暮らしている。 「カノン、ちょっと下がってて」  ドアに手を掛ける僕、咄嗟に頭の中で迎撃の動きを頭の中で組み立てる。 「はい?」  扉の向こうには、もう来る場所を間違えているような風貌の人間が居た。  頭にはヘルメスが被っているような鍔広の帽子。  服装はそういった事にうとい僕でも分かるぐらい、だらしがない。  ただ、放っている何かは、ミスカトニックで覚えた匂いによく似ていた。 「何の用かな? ……魔術師さん」  同業者にはこの挨拶だけで十分だ。鍔広帽子の雰囲気も、少し和らいだ気がする。 「やっぱり同じ匂いがすると思った。でも、ちょっと薄いね」  声色からして女の子だろうか。カノンよりも少し幼めで、高い声。 「薄い、っていうか……根本的に違う?」 「と、透矢?」 「可愛い子が居るみたいね」  鍔広は俺の後ろをのぞき込む。  カノンの顔を見たのか、すぐに僕に視線を戻す。  目線がどこに向いているか分からないことが、そこはかとなく怖いのだが。 「釣り合ってるわね」 「何がだよ。……それで、ご用件は?」 「この街の先人にご挨拶を、ね」 「……ごめん、僕は魔術師の因習とかはよく分からないんだ」  へぇ、と考えるポーズを取る鍔広。少しして、大体の僕の正体に目星が付いたようだ。 「こりゃ、当て外れたかな。私が先人だったオチ? あ、でも、この人は魔術師であるのは間違いないわけで……」 「あのー」 「ん?」 「玄関先で考え込まれるのは、ちょっと……その見た目だし」  鍔広に女の子らしくない格好の子と立ち話ってのは世間体的に絶対良くない。 「そうやって連れ込まれるほどバカじゃないよ」 「いやいや、そういうのでなくね……」 「冗談。お邪魔しまーす」  鍔広。ご機嫌で僕の家に無断侵入。……魔術師家に上げて大丈夫…… 「バウバウバウバウバウ!」 「な、何よこのわんこ! 可愛くない!」 「お、落ち着いて、お互いに落ち着いて」  なんて楽しそうな声が聞こえてくる。  ……ふぅ、とため息を吐いて僕は家の中にとって返した。  カノンを厨房に待たせておいて、僕は鍔広と一対一になって書斎に居た。 「あの子外したのって偽善?」 「いきなり凄いこと言うね」 「だって、君みたいなのと一緒にいるって事は相当入り込んでるんでしょ? しかも一緒に暮らしてるみたいだし」 「君に答える事じゃないよ」 「ふーん。煮え切らない男は好きじゃないなー」  ……この子の狙いが全く読めない。バレット教授の授業、ちゃんと受けておけば良かった。  魔術師に関しては、ミスカトニックに居たにしては知らなさすぎるしなぁ……。 「ていうか、室内なのに帽子取らないの?」 「ん? なに? 顔見たいの?」 「どこをどう歪んだ解釈をするとそうなるわけ?」 「いや、自分でも君の顔が見えにくいから、邪魔だなーって思ってたんだよね」  そう言って、鍔広は帽子を取った。あぁ、心の中での呼び名が無くなってしまったじゃないか。 「うんうん、視界良好」  そう言って、鍔広……じゃなくて、女の子は結っていた髪を下ろす。  綺麗な亜麻色の髪がふわっと広がり、東洋人らしい顔立ちの、どちらかというと綺麗な顔が現れた。 「初めまして」  僕はなんとなく挨拶。女の子はきょとん、とした後、 「とりあえず、初めまして。さってと、まぁ、わざわざ家にまで上げて貰ったしね。 それなりに腹は割っておくわ」  顔立ちに似つかわしくない、大人びた言葉。 「私の名前はスミカ。日本語だと、澄み渡る香り、って書くのかな」 「かな?」  自分の名前なのに、適当なことだ。ま、でも鍔広って呼ぶよりはマシなのかな。 「親に聞いたこと無いから」 「……家出少女?」 「まぁ、そうとも言うのかも。親に、出かける許可なんて取ってないし」  そう言って澄香は肩をすくめる。 「ま、結局澄香は僕にとっては他人だし、そこについてはどうこう言うつもりは無いけどね」  ほとんど他人同然の相手に過干渉はよくない。 「なんでこの街に?」 「……探してる人の匂いを、ここで感じたから。で、それを辿ったらここに来たの」 「……誓って言うけど、僕は君のことは知らないよ」 「うん、私も君のことは知らない。名前もね」 「……ごめん、名乗り遅れたね。僕の名前は八上透矢」 「そっか。トーヤ、って言うんだ」  澄香はトーヤ、トーヤと僕の名前を繰り返している。 「しばらくこの街には居ると思うから。その間は、よろしくね?」  うん、と頷いてから、分かりきっていることを尋ねてみる。 「探している人が、ここに居るから?」 「うん。やっと、見つけたから」  澄香の表情の変化が全くない。喜びも悲しみも、怒りも。  それが、少し怖かった。久しく覚える、恐怖に似た感情。  怖いから、ではなく、驚いたからだと思う。澄香がこんな顔をするなんて、と。 「何か、やるつもりなの?」 「……最悪ね。でもあなたに迷惑は掛けないから」 「迷惑、ねぇ」  まぁ、絶対めんどくさいことに違いないよね。 「なに? どうせ、災い降りかかるんだろうなぁって目は」 「お約束でしょ?」 「……まぁ、そうなるかもしれないわね。その時は、精一杯お詫びするわ」 「生きてたら、とかそういう物騒な話かい?」 「よく分かったわね。生きてたら、お詫びするから」  本当に生き死にかかった物騒な話!? 「……はぁ」  思わずため息。一年間は無事に過ごせてきたけれど、ここに来て大イベントが起きてしまうようだ。 「……冗談よ。この年で死にたくないもん、危ない橋は渡らないわ」  そう言って、澄香は立ち上がった。 「……行くの?」 「私の探し物は動くから。早く、私が探してるって事教えてあげないと」  澄香はそのまま、振り返らずに書斎から出て行った。  もちろん、帽子は被っている。  もう、うちの犬は澄香を威嚇したりしない。 「……本格的に敵意は無さそう」 「そうね」  アテナ、それにヘルメスが立っていた。 「ヘルメスが突然出てくるなんて珍しい。鍔広帽子に誘われた?」  僕がからかうように言うと、ヘルメスはやれやれと肩をすくめた。 「あの嬢ちゃん、感じが独特だったんでな」 「そこそこやるみたいだったしね。この街で何をおっ始めるつもりなのかしら」 「迷惑掛ける気満々……?」 「かもね。透矢、あなたも探し物、手伝ってあげれば?」  アテナの予想外の提案。ただ、それも悪くない気がする。  災いの種は摘んでおくに限るからね。 「透矢? あの子は?」  紅茶のカップを二つ乗っけたお盆を持ったカノンが、ドアの所に立っていた。 「帰っちゃったよ。……紅茶は二人で飲もうか?」 「うん。……どうしたの、透矢?」 「え?」 「なんか……良く分からない顔してたよ? ちょっと怖いんだけど、なんか優しそうな……」  なんともまぁ、微妙な顔をしていたものだ。 「思うことが色々あってさ。ん、お茶しよ、お茶」  クッキーと紅茶を片手に、可愛い女の子とアフタヌーンティー。  良いね、これだけで明日以降も頑張れる気がする。  ……春休みが終わるまで、ちょうど一週間。僕の方でも、その匂いとやらを追ってみても良いかもしれない。 「さて……どうなることやら」 「??」  その夜、僕は書斎でミスカトニックで貰って以来埃を被っていた、魔術師に関しての本を読んでいた。  やっぱりカルト的な物なのは違いないだろうけど、これはミスカトニックの教授が個人的に作った物。 「相変わらず、なんで教科書に暗合仕込むのかな、あの人」  あまりにも疲れるので、僕はため息混じりに本を放り出した。 「魔術師同士が魔術の跡みたいなのを匂い、っていうのは分かったけど……」  僕は、魔術が常時発動しているようなものだから、街の至る所に跡が残っていてもおかしくない。 「もしかしたら、僕のせいで探しにくくなってるかもしれないな」 「それは無いな。あの嬢ちゃんは探し物かなり強烈な感情を持ってた。お前の匂いなんかでそれが薄まるはずがない」  突如現れたヘルメスはそんなことを言ってすぐに姿を消す。 「……出落ち!? ま、まぁいいや……」  ひとしきり調べ物も終わった。明日から、僕も魔術の跡を探してみるとしよう。  ま、跡を探すのは僕じゃない。 「明日からよろしく頼むよ、ヘルメス、オーディン」  はぁ、と聞こえてくる見えない二人のため息。  僕、魔術の才能無いんだもん。しょうがないじゃないか。  さすがにもう風呂に一緒に入るという素敵なイベントも起きず、ゆったり浸かってから僕は自室に戻った。  僕は濡れた髪もろくに乾かさずに、ベッドに倒れ込む。  あまりの蒸し暑さにエアコンを点けたくなるが、我慢我慢。  今年の春は熱帯夜になることもある。いくらなんでも、地球温暖化だけが原因とは思えない。 「だからって僕に原因が分かる訳じゃないんだけど」  にしても、本当に寝苦しい夜だ。  こんこん。  あ、ノックの音がする。 「カノン、どうしたの?」  これでカノンじゃなかったら、僕間違いなく死んだな。  まぁ、僕に死の予兆が見えることもなく、やっぱりノックの主はカノンだった。 「ごめんね、透矢。その、ああいう人が来てちょっと不安になっちゃって……」  カノンはあの街の逃避行以来、そういう魔の物に触れたり、精神が不安定になったりしたとき、あの時のことを夢に見るらしい。  それが怖くて、たまにカノンは僕の部屋で一緒に眠る事がある。  僕とカノンの名誉のために言うが、絶対に変なことはしていない。 「カノンが寝付くまでは、いつも通り起きてるから」 「ん、ごめんね」  子猫のように丸くなりながら、カノンは僕の隣で布団に潜り込む。 「今日のあの魔術師の女の子……」 「しばらくここに居るみたいだよ。大丈夫、あの子に敵意は無いみたいだから」  うちの犬が反応しなかった時点で、あの子は99%シロだ。  ちなみに黒い犬は、部屋の入り口で丸くなっている。  あれで一応守ってくれているつもりらしい。 「一応、明日から街には出てみる。何か起こるかもしれないし、そういう芽は摘んでおかないといけないから」  布団からちょっと顔を出したカノンは、こくりと頷いた。 「よ、夜までには帰ってきてね?」 「そんなに心配しなくても、僕が何かされるわけじゃないと思うし」  そう言って、僕は出来るだけカノンの気を楽にしてあげられるように笑う。  その後は、明日のご飯の話とか春休み明けの話とか、他愛のないことを話しながら、カノンが寝付くのを待った。  ようやくカノンが寝付いたのを見て、僕もカノンから精一杯離れつつ、布団に潜り込む。  こうして、何も代わり映えしなかった春休みの日々は終わった。  時刻は夜の二時。夜の小凪を、鍔広帽子を被った少女が歩いている。 「あいつ、やっぱり透矢の匂いに紛れようとしてる……」  あまりの腹立たしさに吐き気がしてきた。  あいつは今も、隠れて、何も関係ない人に全て押しつけて逃げようとしている。 「必ず、見つけ出してやる……」 「お前さんがお探しなのは」  その聞き慣れない、だけどただならぬ雰囲気を持ったその声に反射的に振り向いたとき、  月が――見えた。  今日は朝から騒々しい。  朝ご飯をカノンと一緒に食べてから、僕はすぐに家を出ていた。  カノンも止めようとはせずに(一年の間に、少しだけカノンは友達達を信用するようになってくれていた)送り出してくれた。 「にしても、なんでこんなに物騒な人たち見かけるの?」  街の角、至る所に警官警官警官。雰囲気も重々しいし、何があったんだろう。  ちなみに新聞は取っていないし、朝のニュースも見ていない。 「さって、どこ行こうかな」  なんて言っている側から(家から三十分ほどの、駅の近くにある商店街)凄い数の人が集まっているのが目に入った。  その人混みに聞き耳を立てると、 「……血溜まりが、」  とか 「あの量なら……んでても……」  とか 「帽子……てた」  と…… 「すいません、その帽子って、魔女が被ってたりする帽子に似てました?」  僕は意外と冷静だった。  頭の中は冷めていて、出来るだけ詳しく状況を把握しようとしている。  何人かの野次馬が頷いたり、そうそうと言ったのが聞こえてくる。 「そうですか、ありがとうございます」  僕だって、魔術的な才能はダメダメだが召還師としての才能には自信がある。  だから、ここに何が居たかぐらい、簡単に特定できる。 「……さて、澄香は無事かな?」  僕は再度、街の中を歩き回る。  背後には半透明のオーディンとヘルメス。普通の人間には視認できないだろうが、そっちの才能に優れている人なら見えるかもしれない。  この状態の二人は、僕に触れることも出来ないし、もちろん戦ったりすることも出来ない。  僕の召還の依り代であるエイボンの書は家の書斎に置いてある。  依り代が近ければ近いほど、魔術は力を増す。  魔術が力を増せば、オーディン達は実体により近くなる。そうなると人の目にも触れて、今に輪を掛けての大騒ぎになりかねない。  正直身を守って貰えないのは不安だけれど、この日中から襲われない、と信じたい。  なんて弱気を振り払って、僕は二人に言う。 「ヘルメス、魔術の残滓を。オーディンは神格がこの街に居ないか探して」  昨日、澄香を襲ったかも……いや、襲ったのは間違いなく、とんでもない神格だ。  あの場に立った瞬間、辺りの声や感覚が遠のいたのは間違いなく……。  僕が知りうる中で、あれだけ直接人の感覚に影響してくるような神格は、それこそネクロノミコンぐらいのものだ。 「透矢、大丈夫だ」 「……ありがと」  オーディンは力づけるように言って、気配を消した。恐らく街を回りに行くんだろう。 「ヘルメス」 「任せておけよ」  ヘルメスは、澄香が使ったであろう魔術の残滓を探して、澄香を追跡して貰う。  あれだけの化け物に襲われて、あの場に居ないなら何らかの魔術で抵抗したか脱出したはず。  ……遺体を持ち去られたというのは、考えない方向で。 「あと出来ることは……」 「バウワウ!」  僕の隣には、黒い犬がいつのまにか居た。  慣れたことなので、僕は犬の頭を撫でながら囁きかける。 「昨日のあの子を探してくれ。それと、」  犬は一つ、バウ! と吠えると、どことも知らぬ所に走り去っていった。 「頼むよ、みんな」  祈るように、僕は呟いた。  僕は家から出来るだけ、付かず離れずの距離の場所をうろちょろしながら、皆の報告を待った。  その時、 「見つけたぞ」 「ヘルメス」  僕の隣に跪くヘルメス。ちなみに、僕は近所の公園に腰を落ち着けていた。 「さっさと行こう。嬢ちゃん、結界あったお陰ですぐ見つけられたが……」 「あの血……」 「急ぐぞ」  ヘルメスの強い口調に、僕の歩く速度は速まっていく。ヘルメスが先頭を切って歩いて行く。  どれだけ路地を歩き回っただろうか、ようやくヘルメスは歩を止めた。 「ここ」  そう言って、ヘルメスは杖を振り上げ、何もない虚空に触れた。  その瞬間、触れたところから違う光景が広がってきた。  それは、道を覆うほどの、濁った赤。 「おい!」  たまらず、僕はその裂け目に飛び込んだ。遅れてヘルメスも中に入ってくる。  そこには、お腹を押さえながら行き止まりの壁にもたれかかっている澄香が居た。 「傷は?」 「だいぶ……」  見ると、確かに地面を濡らしているのは新鮮な血ではないようだ。  澄香が手で押さえている部分からも、血が流れてはいない。  澄香は苦悶の表情のまま語り出す。 「二槍流のとんでもない奴、分かる? ……アレは人間じゃないわ」 「二槍流……?」  実際に見てみないと断言は出来ないが、あれだけの神格を持って二槍流となると、随分特定できるような気がする。 「と、とにかく」  僕は澄香に肩を貸す。抵抗せずに、あっさり澄香は僕に体を預けてくれた。 「なんかしたら呪い殺すわ」 「治療もダメなの!?」 「脱がしたら殺す」 「……ヘリオス!」  僕たちの傍らに、色彩鮮やかなマントを纏った男が現れる。  男の名はギリシャ神話の太陽神、ヘリオス。空の王とも言われる彼の最大の力は、 「僕の家までかっ飛ばして」 「おうよ、任せな。久々に呼んでくれて嬉しいぜ」  にやりと笑い、僕はヘリオスのマントの裾を掴んだ。ヘルメスはヘリオスとなにやらアイコンタクトを交わし、姿を消す。 「そんじゃ、捕まってろよ。落ちたらリアルに死ぬぞ」  そう言って、ヘリオスは光を纏い、  文字通り、跳んだ。ヘリオスにとっては簡単な跳躍、だが僕らにとっては瞬間移動にも相応しいものだった。  気がついたときには家の中。ヘリオスはグーサインを作って姿を消す。  僕は、らしくない大声をあげた。 「カノン! 救急箱!」  澄香の傷は塞がっており、また道路を血で染めてしまった出血もなんとかなりそうとのことだった。  というか、なんとかしたらしい。 「ん、料理上手いんだね〜」 「そ、そうかな?」 「うん、普通に上手いと思うよ。美味しい美味しい」  などと、ニコニコ笑いながら母の(元)ベッドを占領している澄香に、とりあえずホッとする僕。 「なにはともあれ、無事で良かった」 「……ありがと。それで、どうするのかしら?」 「……もしかして、私外した方が良いかな?」  僕と澄香の穏やかじゃない雰囲気を見て、カノンは言った。 「あなたが聞きたいと思えばここに居て良いと思うし、聞きたくなければ外してちょうだい」  そうカノンに言い放ち、澄香は僕に向き直った。 「あなたには借りが出来た。多分、返しきれない借りが」 「別に。ただ、顔見知りがあんなことになっているなら、助けたいって思っただけ」  あ、そうだ。と、僕はポケットにねじ込んだある物を手渡す。 「……これ」 「帽子。拾った人に頼み込んで、貰ったんだ」  澄香は嬉しそうに、鍔広帽子を目深に被った。 「……ありがとう、透矢……」  静かに、静かに澄香はそう言った。  そして目深に被っていた帽子を、被り直す。露わになる強い視線。  決意のこもった視線が、僕を射貫く。 「あなたは多分、私の探し物と互角の力を持ってる。私じゃあいつには勝てない。正確には……あいつの、力には勝てない」  並の魔術師であれば、“それなりの”神格は容易く退けられる。  ただ、それはあくまで召還師の技量が足りなかったりや、召還の方法の手落ちによって呼び出した存在が弱かったときの話。  場所、時間、呼び出す方法、呼び出す存在、術者の技量、全ての条件が良好に揃えば……。  世界や国を創造した化け物はさすがに無理でも、オーディンのようなクラスの神格なら召還は可能だ。  神格は人それぞれで形が変わる。信仰心とか、そういった部分でね。だから、僕のオーディンがオリジナルのオーディンであるわけじゃない。  召還師の数だけオーディンがある、とでも言うべきだろう。それ故に、強さは召還師によってまちまちになる。  そんな安定した力を持たない召還師達の(僕みたいなちゃらんぽらんしたのじゃなくて)悲願は、完全なオリジナルの神格の召還。  召還する神格は、人それぞれだけど。神話の如き力を持った神々を、彼らは求めて止まない。 「……その探し物は、君がそうなってまで見つけなきゃいけないの?」 「えぇ。……絶対に」 「……どっちにせよ、澄香は今日は安静にしてないといけないよ。カノン、見ていてあげてね」  そう言って、僕は立ち上がる。  行く先は書斎。エイボンの書の元へ。  机の上には開きっぱなしのエイボンの書があった。それを閉じ、術用のローブを引っ張り出す。  僕の背後に、アテナとアレスが現れた。 「あら、本気?」 「……うん」 「術者と召還された神格、双方を同時に相手しないといけないんだぞ?」 「召還主は僕がやる」  ひゅーっとアレスは口笛を吹く。  ちょっとだけ嘲笑気味なその音に、少し嫌な顔をして見せる。 「確かに、お前は魔術師に比べれば体は滅茶苦茶出来てるよ。だけど、そんな化け物を抑えられるのを召還しながらじゃそんな余裕……」 「無茶するから。問題ない」  そう言い残して、僕はエイボンの書をローブに滑り込ませる。  そして、静かに家を出た。  オーディンはずっと出っぱなしだ。犬も出っぱなし。二人は街の中を駆け巡って…… 「何も他人の尻ぬぐいをする必要は無いだろう?」  オーディンが、家を出た僕の隣に現れる。昼間の時と違って、確かな姿で。 「時間は?」 「もうすぐ一時。……頃合いじゃない?」  内心、武者震いを必死に抑えながら、僕はオーディンと……皆と共に歩む。  召還師、というか同業者と戦うのは初めてだ。武者震いも致し方ない、と思う。 「場所は分かったの?」 「改築中のショッピングモール、だったか? あの中だ」 「危ない?」 「一般人なら危険かも知れないが、お前なら大丈夫だろうな」  その言葉にホッとして、僕はオーディンに従って歩き出す。  どれくらい歩いたか。小凪の街の中心部にようやく辿り着いた。  そして、工事中につき立ち入り禁止という看板が目に入った。 「ここ?」  オーディンは頷く。  確か、新学期開始ぐらいと共に新装開店するという話しだったか。  静かに、僕は一歩足を踏み入れた。  ショッピングモールのあちこちが灰色のビニールで覆われ、まだ工事途中の鉄筋も目立つ。  ここに召還主は潜んでいるんだろうか。 「気配は……」  オーディンは首を横に振る。  静かに、僕達は奥に歩を進めていく。  半ばまで来ただろうか、その時、 「貴様……何者だ?」  来た、と思わず反射的に身を固くする。声の主はどっちだ……? 「ふん、どちらにせよ敵であるのには変わりあるまい。……この番犬に見つかった、それが運の尽きだ」  声の主が姿を現した。白い戦衣装に二本の槍、それでようやく合点がいった。 「クー・フーリン……。でも、あいつは……」 「いかにも。俺の名前はクー・フーリン」  放つ殺気はオーディン達の比ではない。それこそ、本物と思わせるような凄みがある。  震えながらも、なんとかエイボンの書に触れ、一人の神を心の中で呼ぶ。  その名はヘルメス。伝令の神にして、魔術師を司る者。 「ヘルメス!」  僕に槍が振り下ろされる、その瞬間横合いから飛び出してきたヘルメスがクー・フーリンを吹き飛ばした。 「魔術師風情が……」  血走った目でクー・フーリンはヘルメスを睨み付ける。 「あ、あの、透矢さん? お、俺に戦えと仰います……?」  既に腰が引けているヘルメス。  英雄と死者の国に渡ることの出来る伝令の神。格としては互角なはず。ただ、この場にいる二人には超えられない壁があった。 「僕は術者を捜す。その間、魔術でオーディンとアレスを呼んでくれ」  僕の言ったことで大体を察したのか、ヘルメスは一瞬、一瞬だけ戸惑った後、 「早くしてくれよ。俺は死にたくない」 「善処する」  そう言って、僕はヘルメスの影から飛び出す。 「ネズミが……!」 「おっと!」  クー・フーリンの横を通ろうとしたとき、案の定クー・フーリンは得物を振り上げる。  が、その槍はまたも阻まれた。 「貴様、何体飼っている? これだけじゃないだろう?」 「さっさと行け、透矢」  クー・フーリンには答えず、僕はアレスの後ろを駆け抜けた。  それと同時に、二人の足下がはじけ飛ぶ。  反射的にアレスは飛び退いたが、クー・フーリンは先ほどと同じように吹き飛んでいった。 「若僧が」  ヘルメスの前には、槍を携えたオーディン。クー・フーリンは獣の目でそれを見やる。 「出来るのが出てきたな。……ふん、二対一か。面白い、やってやる!」  背後で剣戟の音や爆発音が絶え間なく響いてくる。  僕は今、一体しかこの場に召還していない。ヘルメスだけだ。  オーディンやアレスはヘルメスが召還している。さすがに三体同時に召還した状態で、魔術師さんとは出会いたくない。  魔術師であるヘルメスの体を媒介とし、ヘルメス自身の魔術でオーディンとアレスに力を供給する。  いわば間接召還。僕だって、三体、いや、それ以上を召還するぐらい余裕だ。だが、相手が悪すぎる。  それに、僕は召還主を倒さなければならない。故に、魔術師であるヘルメスにあの場を託すしかなかった。  あのクー・フーリンのような化け物と戦わせるには、 僕が一体出すだけでもバテるかもしれない(魔道書の補助有りで)、コントロールできる限界の強さの神格を呼び出すしかない。  それを二体、魔道書などの補助無しで召還するとなれば……想像を絶する負担がかかるはずだ。それは僕もヘルメスも変わらない。  僕が三体出して、あの場で確実にクー・フーリンを倒して、生き倒れて召還主を逃がすか。  それともヘルメスがあそこでクー・フーリンを止めている間に、僕が召還主を倒すか。  両方を天秤に掛けた時、明らかに実りが大きいのは後者だ。  そんなことを考えていると、簡単に目標は見つかった。 「隠れる気も無いのか」 「……んー?」  異質な雰囲気を放った男が、改築中のショッピングモールの二階で煙草を吹かしていた。  物珍しそうに、男は僕の方を見やる。  その男はとんでもなく不清潔な髭面だった。髭剃れよ! って何よりも前に言いたくなるぐらい。 「昨日のあの子じゃないのか。まぁ、異質な感じはしてたけどな。うちのは足止め食らってるし」  そう言って、男はにやりと笑った。思わず、背筋が凍った。 「……あなたは」 「ま、昨日のとはまた違った味だろうな」  そう言って、  男は二階から、僕の目の前に飛び降りてきた。反射的に僕は距離を取る。  そして、絶句した。 「あんた……その右腕……」  右腕は真っ黒、と言っても良いぐらいに黒く染まっていた。月明かりも届かないビニールの下だから詳しくは分からないが、恐らく……。 「血、肉、毛、ていうか人体のその他諸々……。召還以外の魔術をやるにしても、十分すぎる依り代だ……」  右腕全体に、召還陣が描かれている、のだと思う。 「自分の体を使ったのか、限りなく本物に近い奴を呼び出すために……」 「そういうこと。ちなみにゲイ・ボルグなんかも持ってたりする」  気楽そうに男は言う。  ゲイ・ボルグ、クー・フーリンゆかりの槍。恐らく、本物に近付かせるための小道具だろう。  本物であるからゲイ・ボルグのようなものを扱えるのであって、僕らが召還する彼らは偽物、小道具は偽物の完成度を高めたり、召還の成功率を上げるだけ。  ……僕はそう言った物を使ったことはない。使う必要に迫られたことも無ければ、そういう物を手に入れる伝手もない  仮にゲイ・ボルグが本物だとして、召還された彼らでは触れることも叶わない、はず。 「で、てめぇは何しに来た?」  ドスの利いた男の声。  ただ、意外と僕は冷静だった。 「友人を通り魔にやられてね」 「ほう」 「死にかけてたんだ」 「……おかしいな。最悪、歩けないようにするぐらいにしておけって言ったんだが……」  言い終わるか終わらないかの前に、僕は蹴り付けていた。男は簡単に蹴りを躱す。 「ほう、昨今珍しい体鍛えた魔術師か」 「僕は魔術師じゃない。ただの召還師だ」 「……面白い、来いよ、召還師」  凄みを利かせた笑いを、僕はカノンに見せるような笑顔で答え、  戦いの幕が、切って落とされた。  足下で膨れあがる魔力の奔流。最大まで膨張した瞬間、衝撃波を放ちながらそれは拡散する。 「……得物があるなら得物で戦え!」 「ならお望み通り!」  真上から降ってくる気配を感じて飛び退く、ついさっきまで自分が立っていた位置には長剣が突き刺さっていた。 「チッ。すばしっこい奴だ」 「さすがに二対一は厳しいか」  槍を構え直しながら、剣を構える男と、その後ろに居る魔術師二人を睨み付ける。 「最奥が依り代、というより術者か。……突破は厳しいな」  剣士はともかく、その後ろに居る魔術師……というより、化け物と言わざる終えない存在が不気味だ。 「しょうがない」  覚悟を決め、地面を思い切り蹴る。  上から下へ流れていく景色、最頂点に達したとき、思い切り槍を投げ下ろす。  投げ下ろした瞬間、腹部の辺りに強烈な衝撃が走った。弾かれたように地面に叩き付けられる。 「……お前は、オーディンか?」  この感じ、今の一撃で思い出した。あの圧倒的な力を、自分は知っている。  相手も驚いたのだろう、少しの沈黙の後、ようやく絞り出した。 「……その通りだ。貴様、なぜ知っている?」 「なるほどな」  また、忘れていたことを思い出した。  痛む足腰にむち打って、立ち上がる。もう、弱気な考えは全て消えていた。  立ち上がったクー・フーリンを見たとき、アレスの顔色は変わった。 「……あいつ、何か変わった……?」  来る、と身構えたときにはもう遅い。神速の突きが鎧ごと打ち抜いていた。 「アレス!」  声が聞こえるが、返事を返している余裕なんてない。素早く振るわれるもう一撃を剣で受け、クー・フーリンを蹴り飛ばす。  モロに蹴りを食らった格好になったクー・フーリンは吹き飛んだが、空中で体勢を立て直して着地した。  それを見て、アレスが驚愕そのものといった声をあげる。 「お前、何なんだよ!?」  言葉を忘れたかのように、クー・フーリンは行動で示した。  動物そのもののように、クー・フーリンは駆ける。地を蹴り壁を蹴り、縦横無尽に。 「くっ……!」  太刀筋が、あまりの速さに蜃気楼のように思えてくる。だが、一撃は確かにそこにあった。  まさに神速。振り下ろされた、と思えば眼下から強烈な突き上げが襲ってくる。それを剣でいなし、鎧の堅い部分を盾にしやりすごす。 「ヘルメス、アレを下げさせろ」 「無理か?」 「あぁ。……透矢にあんな物を見させるわけにはいかん」  そうか、としみじみとヘルメスは呟き、おもむろに杖を取り出した。 「わり、下がってくれ」 「ちょ、おい! お前、まだ、」  有無を言わさず、ヘルメスは魔力の供給を絶った。アレスの姿はかき消え、殺気だけをばらまき続けるクー・フーリンが残される。 「オーディン」 「なんだ?」 「俺の命もお前に預けるんだからな。俺は、今の俺で居たい」  オーディンは不敵に笑った。侮るな、とでも言わないばかりに。  彼らは、幼い頃から透矢と繋がり続けている。その縁、とでも言うべき物はかなり濃く、一朝一夕に築ける物ではない。  彼らに死ぬという、概念はない。だが、アレスのように魔力を絶って返すのではなく、心臓や頭といった急所を完膚無きまでに破壊されてしまえば、それは人間の死と同じような物だ。  帰ってくることは出来ない。代わりを召還することは出来る、だが、彼らは以前の彼らではないのだ。 「我々は消えてしまえばそれまでだ。ただ、透矢と深く繋がり続けているだけにすぎない」 「その透矢との繋がりを捨てたくないんよ」 「……私もお前のような友人を失いたくはないさ」  そう言って、クー・フーリンへ視線を戻す。  殺気を体中に滾らせた一体の獣は、律儀にも二人の会話が終わるのを待っていた。 「律儀なのだな。ただの狂戦士のたぐいかと思ったが」 「真剣勝負、騎士道精神のたしなみぐらいはあるんでね。……もう良いだろう? あんたの生き血吸わせてくれよ」 「……バーサーカー。私の力を借りていると言うこと、忘れるなよ?」  言い終わる前に響き渡る剣戟の音。二つの槍の切っ先は、オーディンの剛槍の前に叩き落とされていた。  間髪入れずにクー・フーリンは槍を振り上げる。が、足下で起こった爆発は気取れなかったようだ。 「その槍の腕に無詠唱の魔術……。ケッ、戦神の名前は伊達じゃないってか」  憎まれ口を叩くクー・フーリンに、オーディンは言い放つ。 「如何に英雄といえども所詮は人間。神が降りていようとも、私は負けん」 「それは俺たちがお互いに本物だった時の話だ。俺たちは偽物。お前の後ろにいる奴や、お前の強さはあのガキの力と同じ。俺にももちろん、ここに呼び出した奴が居る」  そう言って、クー・フーリンは一瞬、背後に視線をやった。だが、すぐに眼前のオーディンに視線を戻す。 「あいつを守ってやる義理は無い。お前らの友達ごっことは違う、あいつは他人だからな。なら、なんで俺がここに居るのか」 「血湧き肉躍る戦いがあるから、だろう?」 「……話が早い奴は嫌いじゃないぜ」  今度の一撃は、受け流される事なくオーディンに受け止められていた。鍔迫り合いから空いた腕の槍を振るおうとした瞬間、 「チッ。飛び道具はフェアじゃねぇよ」  手元で起こった爆発で、明後日の方向に吹き飛ばされていた。忌々しげにオーディンを睨み付けるが、それも一瞬。 「あるもん使うのはフェアもアンフェアも無い、か。……なら!」  打って変わってクー・フーリンは何やらボソボソと呟いた。その正体にすぐに気が付いたオーディンの顔が、一瞬で蒼白に変わる。  深々と、腹に突き刺さる漆黒の槍。明らかに、今まで振るっていた物とは違う。 「……エクスカリバーの原型、か」 「俺も魔術は好きじゃないが、これも戦いなんでな」  勝ち誇ったように言うクー・フーリンは、槍を引き抜こうとしたその時、 「ヘルメス!」  オーディンの怒号。それに素早く、ヘルメスが答える。  杖を振るい、小さく二三言呟く。  二人の足下に現れる六芒星。それが輝きを放ち始めたと同時に、二人が同時に膝を突いた。 「ソロモンの二重印章……だと……?」 「さすがだ、ヘルメス」  誇らしげなオーディン。それにヘルメスはニヤリと笑うことで答えた。そして、二重印章を起動させる。 「射貫け、封印の六槍――シールジャベリン!」  六芒星の端から光の矢のようなものが浮かび上がり、二人に突き刺さった。 「ぐおっ……!?」 「ぐぅ……!」  苦悶の声を二人が漏らす。それを気にすることなく、ヘルメスは詠唱を続ける。  詠唱が進むと共に光の矢は数を増し、次々と二人の体めがけて突き刺さっていく。そして、六本目がクー・フーリンに深々と突き刺さった。 「ソロモンが悪魔を使役する時や、最後のケリを付けるために用いた、か……」  クー・フーリンは力無く、その場に跪いた。その言葉の調子は、酷く暗い。 「この二重印章は契約を用いてこちら側に来ている連中にとっては、伝家の宝刀みたいなもんだ。 俺たち霊体を、この二重印章は縛り付けることも出来れば、強制送還することも出来るからな」 「……最初からこれを狙ってたか?」 「どうだろうな。……オーディン、帰ってこい」  槍が深々と突き刺さっていたオーディンは、その言葉と共にかき消えた。  その場には、跪くクー・フーリンだけが残される。  それを見て、短くヘルメスは二重印章を結んだ。 「六つの槍を以て結べ!」  印章の上に、檻のような物が構築された。  それを見て、ヘルメスはホッと一息。 「あー……疲れた……」  極度の緊張が途切れたからか、ヘルメスはその場にへたり込んだ。  クー・フーリンはつまらなさそうにその様子を眺めている。 「……あんだよ?」 「お前らのガキは無事かな、ってな。俺のボスは手加減知らないからな」 「なに、俺たちは心配なんてしてないさ。あいつはやる時はやるからな」 「ふん、そうかよ……」  投げやりに答えると、二人はおもむろに透矢が走っていった方を見やった。  無音。そして、何も見えない。 「……静かだな」  剣戟の音が止んだ。どうやら問題の一つが片付いたようだとホッとしたのもつかの間、横合いから強烈な蹴りと共に、体が宙を舞った。  数秒間の飛行を味わった後、重力には逆らいきれずに不格好に床に叩き付けられる。 「くっそ……」  それなりに体術には自信を持っていたつもりだったが、この男はそれ以上だった。  ほとんどこちらは防戦一方。二十分ほど殴り合っていたが、右腕の感覚は微妙にないし、たまに視界も暗転するようになった。  頭の中は完全に危険信号を出しているのだが、プライドとか、澄香がやられたことも手伝って引くに引けなくなっていた。 「思ったよりは出来たみたいだが……」  男はこちらに近寄ってくる。頭のどこかで、あー、終わったな、なんて考えていた。 「……ちょっと惜しい気もするが、さよならだ」  視界が真っ暗になる、どうやら腕一本で頭を引っ掴んで、体を持ち上げられたようだ。  抵抗しようにも、さっきの叩き付けられたのが悪かったのか、体全体の感覚が鈍くなっている。腕も足も動かない。  誰かを召還しようにも、こんな精神状態じゃ召還できるはずもないし、何より本を取ることも出来ない。 「じゃあな。……名前ぐらい聞いておきたかったが……」 「フライング・メア!」  静かなショッピングモールに響き渡る、凜とした声。舌打ちと共に、僕は解放された。  男が素早くその場から飛び退くような音がした。痛む体に鞭入れて立ち上がると、 「格好付けたなら格好付けたなりに気張りなさいよ。……ま、無事なら良かったけど」 「クー・フーリンは抑えた。あとは彼だけ」  気が付くと、黒い犬が労るように僕に体を寄せていた。 「……多勢に無勢か。呼んでもあいつ来ないし、頃合いだな。化け物も居るみたいだしな」 「あら、逃がすと思って?」 「逃がしては貰えないだろうが……。とっ捕まるわけにもいかないんでね。逃げさせて貰うわ」  言い終わるか言い終わらないかぐらいの時に、甲高い破裂音が聞こえた。 「逃がさない」 「埒が開かないな。……ロイグ!」  男は聞き慣れない名前を呼んだ。だが、この気配を僕は知っている。  二体目をあの男は召還したのだ。姿は見えないが、既にその神格はこの場にいる。形勢は一瞬で逆転、下手を打てば皆殺しにされかねない。 「澄香、下がって」 「今ここで逃がすわけにはいかないの。お願い、止めないで」 「おじさん、まさかまだやる気?」 「どうかねぇ。どっちかってーと今日の所は引き上げたい気分なんだが……」 「だから、」 「嬢ちゃん、一人突っ走るのは良いが……。相方の事も少しぐらい気にしてやろうぜ」  男の声からは敵意のようなものが消えていた。健闘をたたえているような、そんな感じ。 「体中ボロボロのはずだ。嬢ちゃんが一人先走って俺と戦うなら、俺は容赦なくそこのガキも狙うぞ」  澄香はすぐには言い返さない。……あ、ヤバイ。  体のコントロールが急に利かなくなる。そのまま、僕は床に倒れ込んだ。 「透矢!?」 「……終いだな。ぶっ倒れたガキにトドメ刺せるほど俺は鬼にはなれねぇよ。ロイグ、退くぞ」 「御意。彼も拾っていきましょう」 「そうだな」  薄れていく意識の中で、澄香の叫び声と、馬の蹄の音が聞こえていたが……。そんなことを気にする余裕も、もう無かった。  次に気が付いた時、僕は部屋のベッドにいた。  めちゃくちゃ痛む体を起こして、辺りを見渡す。 「……生きてたか。命あっての物種だよね……」  恐ろしいことに、あれだけ痛かったのにも関わらず、骨折とかそういった類の大きなケガはしていなかった。 「怖いなー、あのおじさん……」  あのおじさんとはまた会いそうな気がする。それなりに流儀とかもあったようだし、極悪人というわけではないのかもしれない。  澄香と何があったかも、分からないし。 「ケガ損したかな……」  最初から何か得を求めて澄香の仇討ちに行ったわけではないけれど、相手を倒すどころかこっちが一方的にやられるだけとは……。  しかも、しばらく召還も出来ないかもしれない。こんな状態でいつもみたいにぽんぽん勝手に出て来られると、体が保たない。 「本、封印しておこう……」  懐に入れておいた本を探すが……無い!? 「あ、あれ? まさか戦ってる途中で盗まれた……?」 「ここよ、ここ」  ぼすん、と音を立てて布団の上にエイボンの書が投げられた。 「生きてたんだ」 「……あんなこと言われたら、戦い続けられるわけないでしょ」 「僕に遠慮してくれたんだ。ありがとうね」 「それより、礼ぐらい無いの?」 「……へ? なんで?」 「私が助けに入らなかったら、頭グシャッ、だったのよ!?」 「……あー、確かに。ごめん、忘れてた。助けてくれてありがとう」  忘れないでよね、なんてぶつぶつ呟いていた気もしたが、とりあえず礼を言われたので満足したようだ。 「……聞かないの?」 「何を?」 「あいつと何があったのか、とか」 「別に。興味ないし」 「きょ、興味無いしって……。……ま、それなら良いけど」  澄香と過去に何があったのかには興味はない。だが、あの男自身にはかなり興味がある。出来れば、もう一回会ってみたいものだ。  まだ澄香は言いたいことがあるらしい。ちらちらと落ち着かずに僕の部屋を眺めていたが、一つ息を吐いてから、切り出してきた。 「ね。相談があるんだけど」 「……?」 「今回、透矢は私に命絡みの借りを作ったわよね?」 「うん、まぁ、確かに」 「物は相談なんだけど……。この家に、しばらく泊めてくれない?」 「宿代は? ……冗談だよ」  もの凄く怖い顔をしていた、気がした。全力で忘れよう。 「お願い、お金も無いし、ここでならご飯も食べられるし、ていうか頼れる人透矢しか居ないし。この街に居れば、あいつともまた会える気がするし」 「澄香、僕に一回命助けられなかった? それで昨日のはチャラじゃない?」 「あ、あれは……。あ、あのままでも死ななかったと思うから。でも昨日のは、もう、ほら……」  殺人の現場から助けてやったのだから、こっちの方が借りはでかい、と。 「カノンは?」 「透矢が良いって言うなら構わないって」  なるほど、選択権は僕に委ねられたわけか……。  澄香が来てから、厄介事がやって来たのは明らかだ。もしかしたら、これからも厄介事が続くかもしれない。  だけど、僕はこの時、そんなことを考えはしなかった。友人として、そして……あの男に、もう一度会ってみたいという思いが、僕の首を縦に振らせた。 「良いよ。その代わり、“しばらく”だからね?」 「あ、ありがとう! 透矢!」 「うわ、ちょっと、痛い、痛いから……」  僕の体を思いやることなく抱き付いてくる澄香にほとほと困りながら、僕は一つため息を吐いた。 「ま、悪くない、か……」  な、と言い終わる前に、僕は見てしまった。  ドアの影から、こちらをジーッと見つめているカノンの姿を。  つーっと、背中を嫌な汗が伝う。あ、目が合った。  カノンはにっこり笑って、その場を去っていった。……この一瞬の出来事が、何よりも怖かったのはここだけの話。  そんなこんなで、今日からしばらくの間、僕の家には魔術師が泊まることになった。そう、しばらくの間だ。  次回予告  そんなこんなで、僕の日本での高校生活二年目が始まった。  何も変わらないと思っていた矢先、とんでもない人物が学校に教師として現れる。  僕の生活の安寧はどこに行ってしまうのか。それは誰にも分からないのだった。